【昭和33年〜】弓道場拡張工事を経て戦後の黄金時代へ

こうして戦績が向上するに伴い、部員の増加により道場が手狭となり、学校の理解ある援助で昭和33年に五人立ちが出来るよう間口一間(約1.8メートル)を拡張する工事が行われた。
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【昭和28年〜】第1回愛知県中学校弓道大会優勝を皮切りに

そして昭和28年12月愛知県中学校弓道大会(中学県大会)が初めて開催されるや第1回の優勝を飾り、高校弓道部も同年第1回愛知県高等学校弓道選手権大会で優勝した。
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【昭和27年〜】弓道場の再建

大正末から昭和初め頃に活躍したOBらが弓矢などを弓道部に寄附するかたわら、学校に弓道場再建を働きかけた。
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【昭和26年〜】戦後、武道禁止からの復活

戦後、軍国主義排除の目的から、それとの関係が強かった武道は学校教育で禁止された。弓道もその対象とされていたが、昭和26年7月の「文部省通達」によりスポーツとしての学校弓道が認められた。
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【昭和16年〜】戦時下の東海中学校報国団弓道斑

戦時体制が強化されていく中、昭和16年7月に校友会は解散され東海中学校報国団がつくられた。
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【昭和7年〜】第二期黄金時代

昭和7年〜13年頃までは宮部弘之助・渡辺不二男君をはじめ山口正保・山田久・伊藤静雄君らの活躍で第二期黄金時代を迎えた。
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【昭和5年〜】悲願の道場完成

同年、当時20才前後の若きOBであった織田信一・水野勇・山中庄一・山本徳良・安藤政次君らの発案で学校に弓道場の建設を計画したところ、広瀬先生の「OBたちが募金したと同額を出してやろう」との言葉が大いに励みとなり、道場建設費の半分は若きOBが、そしてあと半分強を広瀬先生の寄附により約20 坪の道場を完成させた。
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【昭和4年〜】弓術部から弓道部へ、そしてOB団体 東海弓道倶楽部の設立

昭和4年より東海弓術部は東海弓道部と名称を変更した。また、この年に卒業生によるOB団体を設立し、東海弓道倶楽部が誕生した。
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【大正13年〜】広瀬実光範士との出会いと第一期黄金時代

そんな折り、当時日本陶器(現ノリタケ)社長であり名古屋弓道界のリーダーでもあった広瀬実光範士と溝水太郎君の住居が同町内(東区橦木町)にあった縁で、日本陶器の豊明倶楽部内にあった弓道場で広瀬先生に本格的な指導を受けることになり、特に熱心だった織田信一・水野勇・山中庄一・安藤政次君らにより東海中学校弓術部の基礎が出来た。
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【大正7年〜】弓術部の創部

旧制東海中学校で、弓道のクラブ活動が始まったのは大正7年である。知育・徳育・体育による学校の活力発揮のために、4代目伊藤校長の「武道に力を入れる方針をたてよ」との指示の下、鈴木教頭(のち6代目校長)が中心となって弓術部を創設すべく、旧南校舎(木造)の南側に、東向きの的場のみを築いたことを嚆矢とする。
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小笠原流 流鏑馬

小笠原流 流鏑馬 | 小笠原流が各地の神社で奉仕する流鏑馬を網羅した写真集。各地それぞれの行事の特徴や装束が美しい写真で解説される。観覧者が通常見ることのない稽古の様子や小笠原流の歴史についても書かれており読み物としても興味深い。数百年の時を経て継承されてきた古流の現在を記録し後世に残すという意味で資料としての価値は高い。

小笠原流弓と礼のこころ

小笠原流弓と礼のこころ | 小笠原流宗家(弓馬術礼法小笠原教場三十一世小笠原清忠)著。一子相伝800年の小笠原流の歴史や稽古法などについては40年程前に先代宗家の著した書があるが、本書では加えて武家社会終焉以来の「家業を生業とせず」という家訓を守ること、そしてこの平成の世で礼法のみならず弓馬術の流儀を守ることへの矜恃が綴られる。

弓の道 正法流入門―武道としての弓道技術教本

弓の道 正法流入門―武道としての弓道技術教本 | のうあん先生こと正法流吉田能安先生の教えを門人達が記録した書籍。のうあん先生は古流出身ではないが、古流を深く研究した上で現代正面射法を極めた人といえる。射法についての解説はもちろんのこと、伝説の兜射貫きや裏芸といわれる管矢についての記述も読み応えがある。

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