5 竹林院群芳園縁起抄

竹林院群芳園
▲雪の群芳園

聖徳太子が吉野山へ来られた時、一宇の精舎を建て椿山寺と称する。其后天武天皇は専ら御願施物を寄せらる。源義経が逃げて来たとき頼朝より追討の書が当院に送られてきた。南北朝の対立後、後小松天皇の勅命により竹林院と改称される。
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4 手に余る強弓

竹林院霊弓
▲手に余る強弓

稽古後は竹林院の長老である院主に寺の由来(下記竹林院群芳園縁起抄参照)を伺いました。長老のご厚意で、院に所蔵されている古い弓書や弓なども手にとって拝見することができました。特に弓は分(厚み)が1寸を軽く超え、手幅もやはり1寸以上ある強弓で、実に圧巻でした。
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3 まずは弓の稽古

竹林院弓道場での稽古

なにはともあれ、まずは弓の稽古です。射場は、太閤秀吉の命により千利休が作り上げた大和三庭園のひとつ「群芳園」を通り抜け、崖っぷちの急斜面を下ったところにあります。この斜面の足下はかなり悪く、薄暗くなったら谷底に転げ落ちそうです。
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2 石堂竹林坊如成の寺?

竹林院弓道場
▲竹林に囲まれた射場。

奈良の松岡先生から「吉野に竹林院という寺があり、その寺の僧侶竹林坊が竹林派を立てたという言い伝えがある」という情報を櫻井氏が入手したので、平成16年3月6日に竹林院を訪問することになりました。
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1 日置流竹林派とは

竹林院
▲竹林院

日置流竹林派について、弓道四方山話の櫻井氏は以下のように解説しています。
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11-8 吉野山で雪中弓道合宿

2004年3月6、7日は、奈良の吉野山の竹林院に名古屋の弓仲間と弓道合宿に行ってきました。吉野山は桜の花見で有名ですが、一寸早かったので桜吹雪ではなく本当の吹雪の中の合宿となりました。雪が10センチほど積もって、竹林院門蹟、庭園(千利休築庭の群芳園)は幻想的で、まるで水墨画の世界でした。また豊臣秀吉がお花見に来た時の、道具や屏風など国宝級の宝物が陳列されていました。
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1-19 射という字は身を寸とするものなり

星野勘左衛門による伝書の解説を読んでいたら、「射という字は身を寸法の基準にする意味である」というようなことが書いてありました。
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1-18 ねんねん小坊主とは

1-15に「円相の構えは幼子を抱くように」ということを書きましたが、その続きに「ねんねん小坊主、ねんねこぼうし」の言い伝えがあります。
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8-12 すぐに引いて、すぐに離す

「すぐに引いて、すぐに離す射」を目指したいと思っています。
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7-20 唯矢束、わがままな矢束

竹林流の奥義書の弓道教歌に「引く矢束 引かぬ矢束に ただ矢束 三つの矢束を よく口伝せよ」があり、他にも矢束には類似の教歌があります。これは骨法に合致した会に至るには、その人に丁度いい矢束があり、それを修練して見つけ言い伝えなさいと言う意味であります。
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小笠原流 流鏑馬

小笠原流 流鏑馬 | 小笠原流が各地の神社で奉仕する流鏑馬を網羅した写真集。各地それぞれの行事の特徴や装束が美しい写真で解説される。観覧者が通常見ることのない稽古の様子や小笠原流の歴史についても書かれており読み物としても興味深い。数百年の時を経て継承されてきた古流の現在を記録し後世に残すという意味で資料としての価値は高い。

小笠原流弓と礼のこころ

小笠原流弓と礼のこころ | 小笠原流宗家(弓馬術礼法小笠原教場三十一世小笠原清忠)著。一子相伝800年の小笠原流の歴史や稽古法などについては40年程前に先代宗家の著した書があるが、本書では加えて武家社会終焉以来の「家業を生業とせず」という家訓を守ること、そしてこの平成の世で礼法のみならず弓馬術の流儀を守ることへの矜恃が綴られる。

弓の道 正法流入門―武道としての弓道技術教本

弓の道 正法流入門―武道としての弓道技術教本 | のうあん先生こと正法流吉田能安先生の教えを門人達が記録した書籍。のうあん先生は古流出身ではないが、古流を深く研究した上で現代正面射法を極めた人といえる。射法についての解説はもちろんのこと、伝説の兜射貫きや裏芸といわれる管矢についての記述も読み応えがある。

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