10-10 わがままなる弓道
現代の弓道では標準の射法、射形、作法を追求することから、一つの理想を追い求める傾向があるように思われますが、竹林流の教えでは三重十文字とか五重十文字など、曲尺、規矩など基本的な標準はありますが画一的な理想の射法はありません。その点では多様性を認める射法であります。
「わかままなる射」と云って、その個人個人の骨格のままに行うことが骨法の基本であると教えています。これはわがままな射ではありません、自分勝手な気ままな射でもありません。ただ自分の骨格の寸法を基準にして、関節のつき具合に応じた射形があると云うことです。
たとえば、押手手の内の極意として「吾加の手の内」があります。すなわち、鵜の首(うのくび)、鸞中(らんちゅう)、三毒(さんどく)、骨法陸(こっぽうろく)、嗚呼立り(ああたったり)の五つです。これらの手の内についてはその味について説明していますが、そのうちのどれが一番良い手の内かを決めていません。
むしろ、この五つの手の内からその人に合うものを、「時の手の内」として会得しなさいとあります。またこれに対応する馬手の懸けの手の内にも5種類の味がありますが、これも一つの理想の懸けではなく「相応の懸け」といって、その人の押手に見合うものを会得することが必要としています。
離れでも理想の離れには四部(しべ)の離れ、鸚鵡(おうむ)の離れ、雨露利(うろり)の離れの三つがあり、一つには決めていません。いずれの離れも理想の離れの味わいであり、自分で試して会得するしか道はないといえます。
だから、三重十文字とか五重十文字、など射法の基本法則については、原理をきちっと教えますが、唯一の正しい理想の射形というものはむしろ否定し、その人の骨格に合わせて異なった射法があると考えています。
櫻井 孝 | 2004/11/09 火 00:00 | comments (2)
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コメント
私は、人それぞれの骨格の相違による個性があっても良いと考えて、「我儘なる射」という事を書きました。尾州竹林派の弓術書にも「射は身の寸と書きて骨相筋道の正直寸法を本とせよ」とあります。また、骨格には直腕の人ばかりではなく、生まれ付き、あるいは怪我などにより曲り腕の人、曲陸腕の人もおり、皆が一様ではない。それぞれ工夫によって真直ぐに働けば正しいものと云える。
しかしながら、私は正面打ち起こしか斜面打ち起こしかを論ずるものではありません。それはどちらの射法で行っても基本は同じと考えていますので、「正面で出来ないのに斜面で出来るはずがない」とも思います。その点では、残念ながら私の文章の意味するところと貴方の解釈では違いますと云わざるを得ません。
正面では何が出来なくて、斜面に変えたのか知りませんが、その射法を先輩に教えて頂くのではなく、見まねで行えるとは考えられません。「天の声」とまでおっしゃって頂いたのですが、その出来ないことを直ぐに諦めるのではなく、努力すれば出来るようになるはずです。そうして、縦横十文字が整い、真直ぐで伸びのある射を会得してほしいと願います。
-->このコメントに救われました。弓道連盟標準射法である正面うちおこしがうまくできず、弓道教本を読んだだけで斜面うちおこしを真似て勝手にやっている私には、神の声に聞こえました。