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7-20 唯矢束、わがままな矢束

竹林流の奥義書の弓道教歌に「引く矢束 引かぬ矢束に ただ矢束 三つの矢束を よく口伝せよ」があり、他にも矢束には類似の教歌があります。これは骨法に合致した会に至るには、その人に丁度いい矢束があり、それを修練して見つけ言い伝えなさいと言う意味であります。

ところが、矢束の解釈には竹林流の同じ奥義書(江戸時代)の中にも正反対の解釈がなされ、異なった意見のまま伝えられてきました。この原因は言葉の解釈を直接的に表現しないで、意味深長に、玉虫色、反語的に表現する日本人特有の癖のせいではないでしょうか。

【伝書1】「引かぬ矢束」を適正とする解釈

1. 「引く矢束」は短いぞ、骨法に至らぬ矢束なり、もっと引くべき矢束である。

2. 「引かぬ矢束」は十分に引いて骨法にはまり、これ以上引くべきところのない矢束である。

3. 「ただ矢束」は語呂合わせに示したもので、ただ漫然として意味のない矢束である。

【伝書2】「ただ矢束」を適正とする解釈


尾州竹林流の伝書の中で星野勘左衛門は以下の解説しています。

1. 「引く矢束」は五部の詰めからみて短いぞ、もっと引くべき矢束。(この解釈は同じ)

2. 「引かぬ矢束」は骨相筋道(骨法)にはずれて引き過ぎたる矢束なり。引きすぎて緩む矢束である。(解釈が全く異なる)

3. 「ただ矢束」は骨法に合致し、我儘なる矢束である。引き足りなくも、引き過ぎでもなく丁度いい矢束である。わがままなるとは我が体の骨格のままと言うことで、身長の半分とか左手を伸ばして喉から指先までの寸法のことである。(解釈が全く異なる)

また、「引く矢束」について、初心のうちは業を大きくするため引けるだけ一杯に引かせて射させるものという解釈もあり、「引かぬ矢束」は五部の詰めいまだ至らざるゆえ縮みて至らないものとの解釈もあります。

単純な解釈では過ぎたるもの及ばざる如しであり、「中庸」が良いとなるべきところが、「ただ」という重みの無い軽蔑語のため、否定されてしまったと思われます。竹林流では「中庸」を重んじます。「大円覚」、「円相」、「中央」、「引き分け」などすべて片方に偏らずに均等に行なうのが基本です。その点から、引き足りないのも過ぎるのもダメであり、丁度いいのが適正です。

また、「唯真っ直ぐに引き真っ直ぐに離す」、「唯伸びて緩まざる」というように、「唯」という言葉は軽蔑語ではなく、その人の骨格のまま自然に行なうという意味であり、それを骨相筋道に従うといいます。という訳で私は「真っ直ぐに引いて、唯矢束で引き納め、五部の詰めを胸で割って4箇所が同時に離れる射を目指したい」と思います。

ただし、以上は流派の解説であり、弓道教本ではこれらの解釈の違いを踏まえたうえで、ただ引く長さのことではなく、心気の充実の過不足という一段と高い解釈として、「引かぬ矢束」を適正としていますので、学科試験ではくれぐれも上のような解釈は避けてください。

1. 「引く矢束」とは手先の業だけで押し引きして放つ。

2. 「引かぬ矢束」とは心の安定、気力の充実によって機熟し(やごろに至り)自満の末に発する(離れる)。

3. 「ただ矢束」とは矢束は引き込むが、ただ保持しているだけの状態。

コメント

櫻井様
ありがとうございました。「四巻の書 講義」「弓道概論」に関しては道場書庫にある古い弓道誌を探してみます。「現代弓道講座」も道場に揃っていますので見てみます。当道場の古い先生方は生弓会の会員の方も多いので、「本書」に関しては持っておられる方もいる筈ですので聞いてみます。その他非売本は、縁があれば手に入るでしょう。
弓道に限らず、武道の伝書等は、いかようにもとれる書き方であったり、櫻井様のおっしゃるとおり、肝心なところが口伝であったりと、読み解くのがとても難しいです。流派弓道にも大変興味がありますので、機会があれば学びたいと思います。
齊藤昌之 | 2015/05/14 11:20
誤字がありました。
「知事見て」→「縮じみて」の変換間違いです。
櫻井孝 | 2015/05/12 17:55
 続きです。
6.「尾州竹林流四巻の書注釈」富田常正著 非売品 15頁、31頁
7.「四巻の書ー弓道の原点」Internet版「四巻の書:竹の階段」

 1、4、5では魚住先生は教本と異なるとしながらも、「真の矢束」は教本の「引かぬ矢束」と同義であるとし、唯矢束は未熟なものであると書いています。
2.の武道全集は星野勘左衛門の解説であり、「引く矢束は五部の詰に付て見れば短き故、引くべき矢束なり。引かぬ矢束は骨相筋道に付けて引き過ぎた矢束故に、切って射させるところなり。只矢束は我儘なる(我が骨格のままの)矢束の事なり。射と云う字は身の寸と書きて、骨相筋道の正直な寸法を基準にせよとなり。と書いている。
3.の「本書」(五巻の書)では78頁に 「引く矢束は初心の時なるべく大きく十分引きつけて、射させることを言い、引かぬ矢束とは五部の詰めの規矩未だ定まらぬゆえに知事見て十分に至らざるを云うなり。只矢束は五部の詰めの規矩に叶い、長短なく定まり、骨法たけにて過不足なき生来の矢束に納まる所を云う。と書いています。
7.の書物はまだ買っていませんが、その草稿がインターネットに「竹の階段」としてあります。四巻の書を原文、解釈、口語文で丁寧に解説していますが、「只矢束は世間の事よ」という原文を紹介するのみで、それ以上の説明はありません。
 以上で補足説明とします。
櫻井孝 | 2015/05/12 17:46
 斎藤様 コメントを有難うございます。7年で4段を取得し、5段審査に向けて勉強中のご様子は至極順調な上達ぶりと拝見します。正しい理解と信念が正しく真っ直ぐな(正直な)射を身に付けることができます。そうでないとすぐに悪癖が身に付き、遠回りしてそれを直すのに大変苦労します。
 さて、ご質問の内容ですが、じつは非常に複雑でややこしいので、詳しくは改めて書きます。審査には教本通りの解釈として下さい。ここでは出典を簡単に列挙することとします。
1.「尾州竹林流 四巻の書 講義」魚住文衛著  非買本 弓道誌 S61.7〜H1.9 の複写 矢束はS62.6の中で教本1巻の説明とは異なり、「真の矢束」という言葉を用いています。
2.武道全集第3巻 尾州竹林流四巻の書 初勘の巻 249頁に記述
3.尾州竹林派弓術書 「本書」本多流生弓会出版 78頁に記述
4.「弓道概論」非買本 弓道誌 H8.4〜H10.5
5.「現代弓道講座」2射法編上 尾州竹林流射法 魚住文衛
櫻井孝 | 2015/05/12 16:51
初めてコメントいたします。四五歳の手習いで弓を始め、どっぷり浸かってはや七年。弓の奥深さにとまどいつつ射即人生を目指している四段です。

さて日弓連では地方審査・連合審査の地域格差を解消するために、学科における統一問題を27年度から試験導入いたしました。その五段審査問題に『引く矢束引かぬ矢束ただ矢束」について説明しなさい』というものがあります。色々を勉強していく中で、櫻井様のサイトに辿り着きました。

「引く矢束引かぬ矢束ただ矢束」に関しては、私も違和感を感じていました。中庸を尊ぶ日本民族ですので、ただ矢束が一番なのではと。そこで逆の解釈もあることを知って膝を打った次第です。

ご忠告の通り、試験の解答では弓道教本通りの答えを書くつもりですが、生来の天の邪鬼が顔をもたげそうで、「しかし流派によっては…」などと要らぬことまで書きそうです。

7-16に記述してある魚住先生が逆の解釈をしていることについてですが、引用元を教えていただけないでしょうか? とても興味があります。私はいわゆる日弓連流ですが、所属する道場は、本多流「生弓会」に属している先生も多く、流派弓道も学びたいと思っています。

「四卷の書」関連で一般が入手できるのは「四卷の書―弓道の原点」なる本で、審査が一段落したら読もうと思っています。この本で逆の解釈をしているかは分かりませんが。

古い記事へのコメントで大変失礼いたしました。お目に留まりましたらコメント返していただければ幸いです。
齊藤昌之 | 2015/05/06 20:11

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