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手袋考6「強弓」

よく「今の人の弓は弱い」「昔の人は強弓を弩いた」と言われますが、果たして昔はどれほどの弓力だったのでしょうか。

徳川蓬左文庫蔵「星野勘左衛門指矢の書」によれば、尾州竹林流の星野勘左衛門が京都三十三間堂で8000本を射通したときの弓は六分七〜八厘(握り上部の厚さ)で「四貫三百匁(約十六kg)の重りを弦にかけ一尺九寸開く」と伝えられていて、これは「二尺八寸の矢束で推定二五〜二八kgの強さとなる」と魚住文衛先生の著述にあります。

前稿で引用した黒須教授のBlogにも三十三間堂の通矢では「25圈30圓龍弓を引いた」とありましたが、何となく堂射はもっと強い弓だったのではないかと想像している人は多いのではないでしょうか。

かく言う私も「明治期ですら七分(弓の厚さが七分=21ミリ=30キロ超)は当たり前に弩いたものだ」と聞いていましたし、櫻井先輩の計算(弓道四方山話11-10)でも、120mの距離を高さ2.7mのライズで通すために必要な弓の強度は少なくとも41キロになるとのことなので、星野勘左衛門の弓が30キロ弱だったとにわかには信じられませんでした。

しかし、櫻井先輩の記事をよく読み直してみたら、この計算は近的用の弓具を使うという前提のようでした。それなら近的矢より3〜4割ほど軽い矢(堂矢は15グラム前後だったらしい)を使えば恐らく弓力41キロに満たなくても射通せたことでしょう。

星野勘左衛門の弓力については、大伴英邦著「尾張藩弓術竹林教典」に以下のような逸話が紹介されています。

名古屋叢書第七巻に、星野勘左ェ門茂則が八千本の通し矢をして洛中見物の途次ある弓打の方へ立ち寄っていた際 薩州の家士が来て色々とせんさくしている内に星野勘左ェ門と名札のついている弓を見、彼の武士それを手にしていうには、その名轟く尾州の星野なれば定めし剛弓かと思ったのにこのような弱弓を用ゆるとは何事かあろうと嘲って帰った。星野はこれを聞いてあざ笑して、其の弓に矢を番へて庭先へ射込んだ 矢は筈を残して地中深く没した。明日彼武士が来たらこれを見せよといって立ち去った。翌日武士再び来て主人より斯く斯くと話を聞いて驚嘆して昨日の豪語に恥じ入って興ざめた面持ちで帰ったと云うことである。

地中深く矢を射込んだ星野の技は見事ですが、それはさておき、当時七分に満たない弓は弱弓という認識だったことが分かります。つまり泰平の世とはいえ、もっと強い弓を弩いていた射手は珍しくなかったということです。とすると戦時の弓(軍弓)はどれほどだったのでしょうか。

源義経(幼名牛若丸)には「弓流し」の物語があります。屋島の戦いで平家軍は船の舳先に竿を立て、その先の扇を射てみよと源氏軍を挑発しました。扇の的を那須与一が射落とすと敵味方共に感激し、船の舳先で舞う平家の武士まで現れたので、義経は与一に命じてその武士も射させました。平家軍はこれに腹を立てて攻め寄せたものの、源氏軍の馬に蹴散らされて船で沖へ逃げ出しました。

義経は平家軍を追って海へ馬で乗り入れましたが、敵の船から熊手を打ちかけられ不覚にも弓を海へ落としてしまいました。しかし義経は危険を顧みず弓を取り戻して帰りました。家来達は弓よりも大将の命の方が大事であると言って無謀な義経を諫めましたが、義経は「弓を惜しむに非ず、大将の弓と云はん者は、五人十人しても張らばこそあらめ、わうじゃくの弓をとりもちて、源氏の大将が弓よとて笑はん事のねたければ命にかへて取たるぞかし」と応え、家来は皆納得したそうです。

小兵の義経は弱弓(わうじゃくの弓)を使っていたので、それを敵に悟られまいとしたわけです。

五人十人しても張らばこそとありますが、物語にはよく「五人張りの弓」という慣用句が用いられます。これは五人がかりでないと弦を張ることができない弓ということで、とてつもない強弓の喩えですが、実際にどのくらいの弓力(分)を指したのかは不明と考えられています。

しかし、十人張りの弓とはまず言わないので、五人というところに意味はあるかもしれません。例えば弓の両端(末弭・本弭)を各一人ずつで担ぎ、弓の握り付近に二人がぶら下がり、あと一人が弦を掛けるという仕方なら弓を張るのに五人必要と言えます。実際にこうして弓を張ったとは思えませんが、頭の体操のつもりでもう少し具体的に考えてみます。

鎌倉〜江戸期の成人男子の平均身長は150〜160センチ弱だったそうですから、体重は現在の標準同等だとすると50〜55キロほどです。米一俵(約60キロ)を一人で担いで運んだ時代ですから、50〜55キロ×2=100〜110キロなら二人で担げないことはなかったでしょう。こう仮定すると、五人張りの弓は弦を張るだけで100〜110キロの張力だったと考えられます。

実は「弓を水平に両端で固定して握り部分に人がぶら下がって弦を張る」というアイデアは、京都の弓師柴田勘十郎師のBlogを見て思いつきました。Blogには2014年勘十郎師作の伸寸50キロ(七分五厘)の弓に若い弓師さんがぶら下がっている画像が掲載されていて、この画像では裏反りがなくなって弓がほぼ真っ直ぐになっていました。弓力が50キロもあると、現代の青年(20〜30代の日本人男性の平均体重は約65キロ)が一人ぶら下がっても弦を張れるまで湾曲させることはできないようです。

この弓を張台にかけたとき、柴田勘十郎師の身体が床から持ち上がる瞬間もあったとのことですが、日本人壮年男性の平均体重(70キロ)で何とか弦が張れるのだとすると、弓力50キロの弓に弦を張るための張力は70キロ=弓力の1.4倍。これを五人張りの弓に当てはめると、50〜110キロ/1.4=弓力71.4〜78.5キロということになります。

櫻井先輩によれば(弓道四方山話2-1)弓の強さは弓の幅に比例し、弓の厚さの3乗に比例するとのことなので、七分五厘で50キロだとすると、71.4キロ(弓力1.42倍)で手幅が同じ弓の厚さは約1.13倍になるので八分五厘ほど。78.5キロ(弓力1.57倍)なら厚さ約1.16倍になるので八分七厘ほどです。ちなみにこの計算だと寸弓(厚さ十分)は弓力120キロにもなってしまいます。

また、一般的に六分でおおよそ弓力20キロとも言われますから、そうすると71.4キロ=弓力3.57倍→厚さ約1.38倍になるので九分二厘ほど。78.5キロ=弓力3.925倍→厚さ約1.58倍で九分五厘ほどです(こちらの計算なら寸弓は92キロくらい)。

それから、自分の体重と同じくらいの弓力までは弩けるという理屈もよく耳にします。通常、両手で鉄棒を握ってぶら下がることは難しくありません。これは片手の四本指で体重の半分を支えている状態です。そして、多少体力のある人なら片手でもぶら下がれます。つまり四本指で全体重を支えられるわけです。ということは(指の力の問題に限れば)四本指で自分の体重と同じ弓力の弓までは弩けるし、体重の半分に満たない弓力なら四本指は必要ないと言えます。

軍弓には精一杯の強い弓を用いたと考えれば当時の体重相当の弓力50キロ前後(八分前後)でしょうか。体重が80キロを超えるような豪傑なら五人張りの弓を弩いた可能性もあるわけです。

また、半士半農だった武士は日常的に鋤や鍬を握って農作業をしていて手指も革固めのユガケ並に丈夫だったでしょうから、軍弓で一度に20〜30射するくらいは手袋どころか素手でも平気だったかもしれません(箙には通常24本の矢を盛った)。

当流の重鎮で「手袋は破れると修理しなければならないが、自分の手の皮なら破れても放っておけば治る」と仰って素手で騎射の稽古をされる先輩がおられますが、噂によれば馬手親指には自前の丈夫な弦枕ができているそうです。しかも射に応じて取り懸けを変えられるように、その自前の弦枕は幾筋もあるとか(私は畏れ多くて見せて貰ったことはありません)。

それはさておき、星野勘左衛門の逸話からも想像できるように、堂射で30キロ前後というのは大矢数のために精一杯よりも控えめにした弓力でしょうから、稽古や的前では40〜50キロの弓は弩いていたと思われます。

江上清(明治32年生)著「弓道師弟問答」によれば、堂射の天下一を多く輩出した日置流道雪派では「手弓は三本一束にした素引の一本を取れ」と教えたそうです。そしてそれが25キロくらいだったとのことですから、素引きなら75キロが弩けたわけです。一般には二本一束にして素引ができる一本分が適正な弓力と言われますが、そうすると40キロ弱ですから、やはり七〜八分の弓は普通に弩いていただろうと思われます。

また同書には、江上先生が少年のころ父上が対馬の宗家の入札で手に入れた軍弓は、普通の射手では素引もできないほどの強弓だったという記述もあるのですが、残念ながらそれがどれ程の分(弓力)だったのかは書かれていません。

吉田レイ監修「弓の道」によれば、全盛期の吉田能安先生(昭和60年94歳没なので江上先生とほぼ同年代)は40キロ以上の弓が弩けたそうですが、50キロの弓で一射だけしたことがあって、そのときは目から火花が出たと話されていたそうです。ただし強い弓を弩いた後は横になって暫く身体を休めたとのこと。ちなみに能安先生が日光東照宮で兜射貫の演武(昭和16年)に使用した弓は六分八厘(常用のため弓力は六分五厘か?)とご自身の手記にあります。

以上から、晴れの場に使う弓は弓力30キロ前後(六〜七分)。的前稽古や軍弓は40〜50キロ(七〜八分)。五人張りと呼ばれるほどの強弓で70〜80キロ(八〜九分)。寸弓は100キロ前後の超強弓で肩を入れられたとしても果たして矢を掛けて弩けたかどうか、という辺りではないでしょうか。

それ程の強弓を弩くわけでもなく、大した矢数もかけない現代の我々には、堅帽子ユガケは不要に思えます。柔らか帽子や手袋でも充分なのではないでしょうか。弓に精神修養(のための苦行のようなもの?)を求めるなら、むしろ戦国の精兵のように素手で七〜八分の弓を弩く鍛錬をするべきかもしれません。

尚、弓の分(弓の厚さ)と弓力の関係は、弓の材質、弓の老若、矢束の大小、温度・湿度、日常的に弩き込んでいるかどうか等々で実際の強さが変わります。弓書や古文書を手にするときは注意して下さい。

コメント

 貴方と一緒に、吉野の竹林院で見た、竹林坊如成の弓(霊弓)と云われた弓は飴色(焦げ茶色)に輝き、幅も厚さも1寸2分(36mm)程の強弓でした。また、裏ぞりがないばかりか、弦が張っていないのに張った形になっていましたね。恐らくこれほどの強弓になると弦を張ることが相当に困難となるので、全く裏ぞりのない形にしたのでしょう。恐らくこれは100キロを超える超強弓と思われます。

 一方「弓道」誌に寒川先生が「紀州藩通し矢物語(4)」に載せた和佐大八郎の愛弓の写真が竹林坊の霊弓と非常によく似ていました。したがって、普段28mの近的道場で練習するときは100キロを超えるような強弓で行うが、堂射のように一昼夜で一万本も引くときは、その三分の一程度の30キロ級(7分)程度の弓(現代では強弓)で行ったと思われる。

 そういった点から考えれば、貴方の云う通り、現代の弱弓なら堅帽子の四つユガケは必要のないものと云えますね。
 
櫻井孝 | 2016/10/14 22:36

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