手袋考5「銅型」
現代弓道で使用される帽子の付いたユガケの原型は堂射(三十三間堂の通し矢)のために日置流竹林派で開発されたというのが通説です。
ユガケの発達過程については東北学院大学黒須憲教授のBlogが非常によくまとまっています。(注:以下採録にあたってユガケは漢字一文字をカナ表記に改めた)
ユガケの発達過程については東北学院大学黒須憲教授のBlogが非常によくまとまっています。(注:以下採録にあたってユガケは漢字一文字をカナ表記に改めた)
戦場で武士は弓を引くばかりではなく刀や鑓、馬など他の武具を扱わなければなりませんでした。したがってユガケは親指の弦が当たる部分を若干厚くしたていどの手袋様のものが使われていたのです。
ユガケの改良や工夫が盛んに行われたのは江戸時代、三十三間堂の通矢が行われるようになってからです。通矢は一昼夜に一万本もの矢を放ち、しかも25�圈�30�圓龍�弓を引いたので、弦を引く親指が非常に痛みました。そこで親指を保護し痛みを和らげ、楽に弓を引けるようなユガケが必要だったのです。
親指を皮で固める工夫をしたのは、竹林派二代の石堂竹林貞次だと言われています。また、帽子に堂型のいれたのは江戸初期に通矢に6回も天下一になった大蔵派の祖、吉田大内蔵茂氏(金沢藩士)の発明で、さらに角を入れた工夫は、紀州竹林派の吉見台右衛門経武だといわれています。
また、『尾州竹林流文射の巻』「的ユガケの説」や『名古屋双書』八巻には、角入れの工夫をしたのは、尾州竹林派の長屋六左衛門忠重(天下一3回)だと記述されています。
寛永14年頃(1637)から通矢総数が上昇していることからみてユガケの改良が行われたのは寛永12〜13年頃だと考えられます。
大蔵派の伝には、その始祖吉田大蔵(慶長年間の人1596〜)が堂前を射るのに疲労を少なくするため、薬指を付け増し、四ガケにしたとあります。
藩の名誉のため命をかけた通矢で一本でも多くの矢を通すために様々な工夫がなされたのです。堅帽子や、四つ指、大控えなど現在のユガケにみられる特徴はみなこの頃に出来上ったのです。
現在ではほとんどの人が15間小的前にて角入りの硬堅めのユガケを使用しています。しかし本来、硬帽子のユガケは通矢のために考案されたもので、小的前で使用するものではありません。
堅帽子ユガケについての歴史的資料はこれでほぼ網羅していると思いますが、いつ頃から的前で堅帽子ユガケが使われるようになったのか、そしてどうしてそれが一般化したのかという記述がないのは、確たる資料がなく不明だからでしょう。私も弓術関係の文献を手にする度に的前用堅帽子の手がかりがないかと期待するのですが、何も見つけることが出来ずモヤモヤするばかりです。
モヤモヤすると言えば、黒須教授の記述にある「堂型」とは何なのかも気になります。
通常「堂形」といえば堂射稽古用の「折掛堂形」と呼ばれる仮設三十三間堂のことです。折掛は射距離中間地点で軒の高さに張った縄で、堂形は射場(射位)と折掛と矢先(堂の向こう端)の三ヶ所に築いた屋根や塀のことです。本田利實著「弓道講義」によればこの三ヶ所を「閣門」と呼んでいたようです。
しかし黒須教授の記述では「帽子に堂型のいれたのは」とありますし、前後の文脈からユガケの構造にかかわることだと推測されます。現代弓道講座第4巻「ユガケの種類と特徴」石岡久夫著の中に以下のような記述があり、ここには「銅型」という語が出てきます。
なお付言しておきたいことは、高木正朝(幕末ごろ紀州の人)の『日本古義』の説である。それによると、親指を皮で堅めたユガケは、竹林派二代の石堂竹林貞次の工夫であり、帽子に銅型を入れたのは、江戸初期の通し矢に六回も天下一となった、大蔵派の祖大内蔵茂氏(金沢藩士)の発明であり、さらに角入れの工夫は、紀州竹林派の吉見台右衛門経武であるとの説である。
確認のため日本古義の原典にあたってみました。以下は国立国会図書館近代デジタルライブラリーからダウンロードした日本古義5巻「指懸の項」です。(注:赤字のルビは筆者)


崇神天皇の御代に至りて始めて革を以て三指の懸を製す 其製吉部秘訓抄に図するものなり 指に指すことのなきば是を指懸といふ 又上古弓に懸し事あるによりて弓懸とも云ふ也 一具指懸は神巧皇后の御代より其製あり 此懸は手首まて入るものなれば古代是を手袋といへり(雨瀑の用意には指懸の革の表に漆に膠と鶏卵の白実とを少し交へて油を加へて合せり さゝと塗り漆気のなきように拭いてとるべし 但し十返ばかりも塗りてよきなり 又右の掌に穴を明けいるは手綱又太刀など持つにしまりよきためなり)後の代に至り自然に弓長くなるに随ひ(矢束を引く事を主とする故なり)懸の製もかはりたり 近き世慶長の頃に至りて射礼にも武射にもあらぬ遊興に対する花形をのて事とせしに 竹林貞次武用の実業を失はむことを思ひて 此志を心底に巧にして此旨を弟子浅岡平兵衛に進めて蓮華王院に於て指矢(根矢なり)を射らしむ(指矢とは征矢の事なり 箙羽壺に指す矢という義なり 丁度懸に指す矢を懸矢といふも丁度懸の矢といふ義にして同じ訣なり〜略)浅岡一刻にして始めて五十一筋の矢を射通したり 此時貞次工夫して懸の大指を長く太くして革をかためて製したり 其形烏帽子に似たれば帽子といひ習ひしたり 其後吉田大内蔵矢数の頃帽子に薄き銅を入れて用ひしが後に吉見経武工夫して銅にては重くしてあしきが故に帽子に角を入れかえたり(略)此角入の四ッ懸は矢数射る稽古に用ゆる懸にして的射るに用ゆる懸にはあらず 然る小的射るにも此四ッ懸を用ゆるを間(ママ)見えたり 大に古義を失へり 三ッ懸が懸の本容なり 心得べき第一なり
ここに銅型という語そのものは出てきませんが、吉田大内蔵が帽子に入れていたのは薄い銅(銅板?)だと書かれています。いわゆる革固めとか半固めと呼ばれる革製の帽子に金属製の補強材を追加したということでしょうか。いずれにしても堂型=銅型=帽子に入れた薄い銅だと考えて良さそうです。
以上から堅帽子四ッガケの発生過程を整理してみます。
- 帽子
竹林貞次(尾州竹林の祖とされる石堂竹林坊如成の息子)が指矢(堂射・通し矢)のために革で親指を固めたユガケを作った。革を何重にも貼り合わせて親指を太く長くした。その形が烏帽子に似ていたので「帽子」と呼ばれるようになった。
銅型
次に吉田大内蔵が帽子に薄い銅を入れて補強する工夫をした。
角入
更に銅では重すぎるということで紀州竹林派の吉見経武(吉見台右衛門)が帽子の材質を角にした。この吉見台右衛門が三十三間堂の通し矢で天下一をとり、後にその記録を抜いたのがあの星野勘左衛門である。尾州竹林派では角入は長屋六左衛門忠重の発明もと伝えられている。
添指
吉田大内蔵が薬指を付け足して四ッ指で取懸をするようにしたと大蔵派には伝えられている。
堅帽子四ッガケの完成。
さて、この角入になる前の銅型とはどんなものだったのでしょうか。これについては全く手がかりがありませんが、親指腹に保護インサートとして銅板を当てたと考えるのが自然です。そこで、以前「手袋考3」として紹介した歩射用手袋の親指に保護インサートを仕込んで試してみました。
インサートの材質は銅ではなく塩化ビニールにしました。重量を軽くできますし加工も容易です。最初は普通の塩ビパイプ(VP管=ネズミ色)を加工して幾つか作ってみたのですが、耐衝撃性塩ビパイプ(HIVE管=黒色)の方が粘りがありそうだったのでこちらに変えました。

パイプは適当なサイズに切ってヒートガンで温めます。柔らかくなったら親指にあてがって実際に弦を執って引きます。こうすると自分の手に合わせて弦を引き納めた角度に沿うよう曲がります。射手の骨格や指の太さや形に完全オーダーメイドでフィットするわけです。端を削って滑らかに形を整えれば塩ビ製「銅型」の完成です。

出来上がった銅型というか樹脂インサートを手袋の親指腹に接着し、上から腹革で覆います。極浅く弦溝ができますが弦枕という程ではないので、うっかり堅帽子ユガケのようなつもりで弓を弩くと暴発して痛い目に遭います。

勿論、親指の背は手袋のままですからフニャフニャです。いわば究極の節抜きです。
そして肝心の使い心地はどうかというと、残念ながら良くありませんでした。今回は親指の第一関節を跨ぐ最小限の大きさで樹脂インサートを作ったのですが、指先側のインサート端が指腹にくい込んで痛いのです。弦そのものの食い込みは防げても、指より小さいインサートでは具合が悪いということが分かりました。離れの感触はインサート有り無しで大きな違いは感じられませんでした。インサートの形状はもう少し研究の余地有りです。



実はインサート以外の部分も「手袋考3」執筆時から細かい部分をちょくちょく改修したので変わっています。小紐をしっかりしたものに付け替えたり、掌外周を細くしてフィット感を高めたり、緒をごく僅かに幅広でかつ長いものに交換したりしました。細かく直しを入れただけあってかなり自分の手に馴染んでいたので、さっさとインサートは取り外して元の状態に戻しました。
峯 茂康 | 2016/10/06 木 22:04 | comments (3)
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