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手袋考7「なぜ堅帽子を使うのか」

前稿に弱弓で堅帽子は不要ではないかと書きましたが、吉田能安先生の口述録「弓道研究」にも「当たりだけなら柔らか帽子の方が当たるに決まっている。」と書かれています。

しかし能安先生はそれに続けて「弓道では、なぜ堅帽子を使うのかを考えなければいけない。」とも語っています。

若い頃に親しく能安先生から指導を受けた方にお尋ねしたところ、能安先生自身は四ッガケを使っておられたが、能安先生からユガケについてあれこれ指示されたことはないし、特にこだわりも聞いたことはないとのことでした。つまり自分で考えなさいということです。さて、なぜ堅帽子を使うのでしょうか。

まず、的中向上のためではありません。これは能安先生が最初に断言しています。そして、親指が痛まないようにするためとか、堅い控え(一の腰)と組み合わせて親指が起こされないようにするためでもなさそうです。堂射でなければそんな過剰な補強は不要です。

とすると、何か精神的というか求道的な匂いがします。江上清著「弓道師弟問答」には以下のようにあります。

渾身一擲の矢を出すには四ッガケが適しています。三ッガケの角は短い。長い角は、これがテコになって思う存分引きまくれる。引いて引いて引きまくるのです。大きな射は三ッガケではできません。

江上清先生は堂射の名手を輩出した日置流道雪派出身で、全身全霊を尽くすことによって自然の離れに達する「大きな射」「開く射」を提唱しました。四ッガケの長い角(長い堅帽子)でテコを効かせると、帽子を押さえる三指の力以上の弓力を押し留められます。うっかり離れてしまうことを防いで、全力でどこまでも深い会を求めるわけです。

江上先生は「鷲づかみの手の内」で三指の使い方を以下のよう解説しています。

弦を引くのではなく、大指で弦を押し、他の三本の指は大指を引き回すのです。

元々「鷲づかみの手の内」は本田門下の三高弟(三ゾウ)の一人である大平善蔵先生が提唱した馬手の手の内だそうです。江上先生はこれを自身の「開く射」に採り入れていました。指は外へ開くように働き、弓手もこれに応えて、弓返りなどさせようと思わず自然の手の内で充分に押し開く。こうすれば離すまいと鷲づかみで頑張っても自然に離れるとのこと。

指矢前の名人岡内木先生はユガケにもギリコの代わりにクスネを塗っておられたことを覚えています。どこまでも弓の抵抗に打ち勝って、最大限に全身の力をはたらかせるのです。〈弓を練る〉とも言います。締まるのです。そして、上下左右に伸びるのです。油汗のにじむほどの気力の充実がほしいですね。このぎりぎりの、全力を尽くした射の結果が当たるのです。当てる弓を引いてはいけません。

どこまでも弓の抵抗に打ち勝つ。江上先生の主張はこれに尽きるようです。ただし、これはずば抜けて強力な弓手があってこそでしょう。普通ならこれほど馬手でグイグイと引きまくれば弓手が負けてしまいます。

能安先生の手の内(弓手の指を握り込むことで離れを生む手の内)は、本田門下三ゾウの一人、阿波研造先生をも唸らせ、請われて伝授したというほどですからさぞ強力だったはずです。その能安先生なら江上先生の考える「どこまでも弓の抵抗に打ち勝つ」という境地に踏み込めたでしょう。

一方、本田の三ゾウのもう一人、石原七蔵先生は晩年モタレに苦しみ、四ッガケ、諸ガケ、半固め(上固め)、柔らか帽子、節抜きとユガケを次々変えたというエピソードも江上先生は紹介しています。三ゾウもそれぞれ全身全霊を尽くす射を目指したのでしょうが、四ッガケをテコにして(禅の悟りに通じるような)深い会の境地を得ようとするのは、モタレの危険と隣り合わせなのかも知れません。

武士の世が終わり矢場での遊びばかりに堕落した弓を何とか再興しなければならないという切実な思いが当時の真面目な射手達にはあったのでしょうが、弓と真剣に向き合うあまり振り子を反対へ振りすぎた感も否めません。

禅には禅病という厄介な病気があるそうですが、弓禅一如や一射絶命という精神性を弓に求め過ぎると禅病に似た状態になるのでしょうか。能安先生はそれに気づいていたのか、弟子達に「会では、『ひとーつ、ふたーつ、みいーつ、よおーつ、いつーつ』までに離れる。それ以上もつともたれになる。」と教えたそうです。

一方、精神の問題とは別に筋力の衰えもモタレの原因になったはずです。強靱な弓手と四ッガケで強弓を弩きこなしてきた射手が、老いるに従い衰える筋力に合わせて弓力も落とすと四ッガケのままでは離れにくくなるという理屈です。

浦上栄著「紅葉重ね・離れの時機・弓具の見方と扱い方」には以下のような記述があります。

一般に四ッの方が強い弓が引けると言う人がある。それは事実で、二本よりも三本が強く三本よりも四本が強いに違いない。しかし弓を射るには懸手の力だけで射るものではないことは周知の事実である。必ず左右の力が平均することを必要とする以上、右ばかり強くすることはかえって有害無益である。要は左手に右手が匹敵する力があればたくさんである。

前稿に書いたように、もともと堅帽子四ッガケは堂射で弓力30キロ前後の強弓を数千〜一万射も弩き続けるために開発された道具です。的前でも40〜50キロの弓を弩くことがあればその機能の一部が生かされたかもしれませんが、二十数キロの弱弓ではかえって邪魔になるでしょう。

また、鉄棒に片手でぶら下がれるなら四本指で全体重を支えられるということであり、四本指で自分の体重と同じ弓力の弓までは弩けるはずであるという話も前稿に書きました。ましてや体重の半分に満たない弓力なら四本指は必要ないと言えます。体重の半分というと現代の成人男性なら三十数キロですが、今どきの弓なら恐らく三本指すら必要ないでしょう。

東北学院大学黒須憲教授のBlogには浦上栄先生の動画が紹介されていました(現在動画は削除されています)が、そのコメント欄に以下のようなやり取りがあります。

読者:馬手は握らずに引っ掛けたまま引いているのでしょうか?随分指先が伸びてますね。
黒須教授:著書を読んでみてください。先生の時代はギリ粉も筆粉もなく,むしろ怠けるからいけないと書かれています。先生のユガケの帽子は二本の指の跡で凹んで居たそうです。それ程強く押さえていたのですね。

最近はユガケの帽子を中指一本で押さえる取り懸けが多いようですが、浦上先生のように二本指ともしっかり使って押さえれば体重の半分くらいの弓力に充分耐えるはずです。あろうことか四ッガケを薬指一本で押さえるような取り懸けまで見かけますが理解に苦しみます。取り懸けは力を抜いた親指を他の指で押さえるのです。鉄棒の例を思い出して頂けば自明ですが、弦を保持する力は親指以外の指の力です。

洋弓は人差指と中指の二指を直接弦に懸けますが、和弓も二指と弦との間に親指が挟まっているだけで同じことです。違うのは、弦に対する作用点が親指一点になるため和弓の方が離れ(リリース)のキレの良さでは有利だということです。二指を弦に懸けると、離れの瞬間二指が同時に弦から分離しないと矢色が出ます。そのため洋弓ではリリーサーという器具が工夫されています。和弓の堅帽子ユガケもリリーサーの一種と考えているアーチャーもいます。

私は普段25キロ前後の弓を手袋で(取り懸けは三ッで)弩いています。この手袋は親指の腹に何枚か鹿革を張り重ねているだけで、革堅めの和帽子(柔らか帽子)と呼ばれるような帽子状にすらなっていません。なので角入や木帽子のような堅帽子ではなくても、上堅め(親指型に縫った生皮を水に浸してから型を挿して乾燥成型した帽子)なら30キロくらいは問題ないように思えます。当流には30キロの弓を手袋で弩いている門人が実際にいます。ただ、一日稽古すると指がちぎれそうになるとは言っていますが。

銅型の稿で書いたように、角入を発明したのは竹林派の吉見台右衛門(紀州)か長屋六左衛門(尾州)だと言われていますが、それ以前の堂射の記録を見ると約3千本(総矢数5〜6千本)です。更に時代を遡って銅型(金属製補強インサート)を発明したと言われる吉田大内蔵は初めて千本を超える通し矢に成功した射手です。ということは銅型を用いない上堅め・革堅めの時代でも数百〜千本ほどは弩いていたわけです。

浦上先生のユガケの帽子は二本指の跡が凹んでいたというのは、角入や木帽子が当たり前の現代ではあり得ないことのように思えるでしょうが、革固めの帽子だったとしたら充分考えられることです。

コメント

根拠のない話ですが、むしろ鎌倉のころの古い時代のほうが強弓を引いていたのではないかと思います。その頃は馬に乗り、刀も槍も握るので、小笠原の一具懸けのような和帽子の手袋と思われますが、強弓を用いる人は膠などを用いて固める工夫もしていたかもしれません。
 四つ懸けは江戸初期の堂射の競い合いから発明されたが、角入り三つユガケは竹林坊の時代、あるいは日置弾正の時代に考案されたものではなかろうかと考えています。

 懸けの親指を抑える2指に力を籠めるときは離れに支障を生じるので、それに力を籠めないために、硬い角入りの帽子が必要になったと思います。弓力が強くとも、親指の帽子が硬く真っ直ぐなら、親指を矢筋方向に向けて、中指で親指の頭を廻して抑えれば、それほど力まずとも支えられます。これでなければ軽妙な離れは出ないはずです。
櫻井孝 | 2016/10/14 23:24

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