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12-23 弓に関する神話〜竹林流伝書「灌頂の巻」から

竹林派の伝書の第五巻「灌頂の巻」に弓に関する神話があります。古い文体ですが面白いので、少し現代風に解釈・紹介します。

まず、伝書の概略ですが、竹林流の流祖・竹林坊如成は伊賀日置の弓術書を西暦1550年受け継ぎ、「一遍の射」と云う弓術書を著しました。この竹林坊が書いた本文は極めて簡潔であり意味深長であり、解釈が難しいので、二代目・石堂竹林貞次はこの書を五巻構成に別けて編集し、註釈を加えて認許を与える伝書としました。

伝書とは師匠(道統)が弟子の修行の段階に応じて、この書を書き写し、巻末に日付と代々の師弟の名前を書き連ね伝える認許の巻物です。

第一巻〜第四巻は初勘之巻、歌智射之巻、中央之巻、父母之巻と云い、これを「四巻之書」という外伝であり、第五巻は「灌頂之巻」という内伝(秘伝書)であり、併せて「五巻之書」と云います。

1.神話のイントロ
つらつら、弓の由来を尋ねるに天地(あめつち)の開始(はじまり)、日月の出生し給ひてより、月は水神(みずのかみ)の精なり、日は火神(ひのかみ)の精なり。この二神(ふたはしら)自然と和合して星生ぜり、これによって明星(みょうじょう)と云うなり。
<略>
三光(さんこう=日月星)あらわれてより、色々様々のこと生じ、草木出生すれども、魔王(まおう)天より下りて、皆とりくじき、土沸き水降りて泥界(でいかい)となりて、万物育つことなし。
その時、帝釈 天(天界)より下り給いて、須弥山(しゅみせん)の頂きにてご覧ずるに、日月和合して、星の如き光ありて長きなる物生まれたり。帝釈御覧ずれば一方は烏(からす)の嘴(くちばし)、一方は兎の頭の如くなるに、弦を加えて見たり。帝釈に向かいそぞろに声してものを云いける、「我は弓と云う物ぞ、星の精にてあるぞ、世を守り生類を助けんために弓と云う物に形を変じて生まれたるぞ、我を能く信じてあがめ給えよ、世界の守りとなるべし」と云いたりける。
帝釈奇特に思し召して、枯れたる芦の有りけるに弦を押さえて相構えて、世界の守となれ、あがむべしと宣(のたま)いて、弦を少し打ち給えば、芦は弦に跳ねられて、帝釈のおざす梵天へ上がりて、芦の末(うら)の方に生き物の貌生まれて、これが言葉を云いけるに、「我は星の精なり(小略)形を変じて箆(の:矢)と云う物に生まれ変わりたり、すなわち弓の部類なり、あがめ給え」と云いける。この矢の言葉を云いたるものは頭虫(とうちゅう)の形にある間(似ているので)、矢の頭(筈)を箆けら(おけら)の首と名付けたり。

灌頂の巻の「神話」の記述は荒唐無稽なものですが、古事記の書き出しと似ていて、少し懐かしいおとぎ話です。

世界が天変地変によって泥界となっているのを帝釈天が見ていたところは須弥山の頂きでした。古事記なら高天原ですが、そこは仏教での最高峰の神聖な山です。

▼須弥山とは
須弥山(蓬莱山とも云う)とはヒマラヤ山脈のエベレスト山(海抜8,880m:中国名:チョモランマ)と思っていましたが、実はチベットのラッサから1500km程西の端にある聖地カイラス山(海抜6,660m:チベット名:カンリンポチェ)と知りました。現代ではエベレストのほうが高いことを知っていますが、古代ヒンズーの時代には、高いヒマラヤ山脈を越えて、その北に聳え立つカイラス山が最高峰の神聖な山、バラモンの象徴と考えたものでしょう。京都の寺院などでは築山に蓬莱山を据え、手前に心の形の池を配置していますが、カイラス山の南側に双子の湖があり、心の字の形にも見えます。仏教の曼陀羅の世界は実在の聖地であり、チベットの巡礼者達はこの地を五体投地しながらお参りしています。

▼弓矢に関わる動物〜烏、兎、おけら
弓に関わる動物には烏と兎が出てきます。「長きなるもの生まれたり、一方は烏の嘴、一方は兎の頭の如く」とあります。弓の上端は末(うら)はずと云い、細長い三角錐の形であり、烏のくちばしに似ています。下端は本(もと)はずと云い、短く丸みを帯びた三角錐は兎の額に似ています。烏と兎は陰陽を意味します。烏は天を飛び先導するので太陽の使い、兎は地を走るので陰の使いで月に住むのです。

▼弓矢の始まり
帝釈は世界の頂から見ましたが、弓は上が長く下が短い日本弓であることが判ります。和弓は上が長く下が短いので、上はずを長くしないと引き絞った時、弦輪から抜けてしまうのです。洋弓や中国弓、朝鮮弓は概ね上下対称であるので、上下のはずもほぼ同じ形となります。ちなみに、烏は那智神社に三足の八咫烏の伝説があり、日本武尊が東征したとき霧に覆われた東国の先駆けをしたことが勝利を導いたと云われます。しかし、朝鮮の高句麗の国旗も三足の烏であり、朝鮮伝来の伝説であることは確かです。矢の筈をおけらに似ているとして、箆けら虫、けら首とは面白いです。

2.佛と云う字
その後、帝釈は大通知勝佛(?)の御許(おんもと)に行きお尋ね有れば、佛は弓と云うはこのような物と、少し緩めた弓を取り出してよく御覧ずれば、人と云う字(裏反り?)に成りたりけり、それを張って見れば半月の形なり。この弓について説話は多数あるが、奥義たる故にわざと註釈せず。五受の受戒として弓の灌頂(最高位)はこれなり、内伝なり。(五位の免許の最高位が灌頂であり秘伝である)
その時、佛より帝釈に食べ物を進め給うとて、箸にて弓と箆の真似をし給うにより、一手の矢と学びたり、これによりいずれの場合にも真の弓には一手矢あるなり。

「佛」という字は二本の矢と弓を持つ人と書きます。佛が弓を射ると云うのは、竹林坊が僧侶だったから作られた話と思います。

その僧侶が武術を学ぶのにも違和感がありましたが、竹林坊は元々近江の郷士であり、出家して真言密教の門徒衆(僧兵)となり、修験本宗の山法師(山伏)であったと思われます。大日如来、愛染明王、蔵王権現を信仰し、高野山、吉野山の奥駆け修行によって、諸悪を退治する武術を身に付けたのは相応しいことと思います。

3.弓に関わる動物
またある時、帝釈は猿と烏と兎と三匹を置いて、猿の臂(ひじ)に弦を掛けて矢を放したるをご覧ありて、いよいよ弓の儀(ぎ)顕然(けんぜん)成り、これより「猿臂(えんぴ)の射」と云われる(弓手肘の使い方)が出来たのである。この三つの獣の位にのっとりたることは「三光の恩徳」と云う書物に顕然(けんぜん=明らか)なり。その後、帝釈の目前に烏(からす)が飛び来たりて、桑(くわ)の弓、蓬(よもぎ)の矢を(持ってきて)治世永豊(ちせいえいほう=治世が長く豊かになる)と鳴いた。帝釈はこれを聴いて、いよいよ弓を用い給う。
その後、修羅(しゅら=魔人)と戦(たたかい)となり、ことごとく弓にて敵を滅ぼし給いて、いよいよ世は治まった。このときより烏をお先と名付けた。」
佛道(神道と書いた伝書もある)を日本へ渡し給う時、まず烏を先へぞ渡し給うたことから、烏を日神(ひのかみ)の位につけた、故に弓の上下(末本)を烏兎(うと)と云うなり。日本記に「一張の弓」と云う儀(ぎ=意味)を秘しておくる。

烏と兎については、弓手と馬手の横線も陰陽であり、弓手は烏のように馬手は兎のように丸く、父母の釣り合いで引き分けることが肝心です。

猿については、竹林派の射法では猿臂(えんぴ)の射と云い、弓構えで作った円相の形を残して、弓手肘をやや撓ませて引き分け会に納めるとき、左右に伸び合いながら発する射法です。弓手を突っ張って押し、馬手で引くとき体の横線が捩れ易く、これを防いで引き分けるためです。しかし、弓手を撓ませるのにも加減があり、曲げ過ぎるのは遊びとなり力が弱くなるので、肘関節に豆粒ほどの弾力を持たせることが肝心です。

その後、帝釈天は仏敵である修羅(阿修羅)との戦いとなり、弓矢を用いて滅ぼし、世は治まりました。このとき烏が戦況を伝えたことから、お先と名付けました。また仏道を日本に伝えたとき(日本を平定した時)烏が先導したことから、烏を日神(陽)の使いとして、弓の上下を烏兎(うと)といい、弓の末本(うらはず、もとはず)と云います。

仏像の梵天・帝釈天は国防大臣であり、四天王や十二神将などの武将と千手観音が弓矢を持って警護するのも納得です。

4.聖徳太子と達磨禅師の伝説
仏道(神道)を先の條におおかた(概略)記すなり。
意趣(いしゅ)は聖徳太子と達磨(禅師)とは本は(もとは)中天竺(なかてんじゅく:インド)の人なるが、漢白と覚賢(かんぱくとかくけん:共に弓の達人)が弓説(ゆみのせつ=弓の逸話)を聞き、さらば(それならば)日本へ禅学(ぜんがく=仏教)を渡すべし。
しからば日本へ生まれ変わり、互いに仏法の総(ふさ=長)とならんと約束し給ひてあるが、なんと間違いたるなり。
尊者(そんじゃ=達磨)は二十年先に大和の国の片岡谷と云う所の貧しき者の子に御生まれになって、聖徳太子を待ち給うあいだ、馬になりて人に使われ給いて(あるが)、聖徳太子御生まれ給ひてより互いに知ることありて、その時の歌にも日本の縁(えん)ともに顕然(けんぜん)たり。こと細かにここに記すに及ばず。
または千編巻(せんべんかん)の弓(書)に内伝これあり、これ灌頂(の巻)なり。日本に千編数珠とて念仏者の用いるものも、弓を真似て念仏の行者仕(つかえ)学びたり、万法(ばんぽう)みな弓より起こるなり。人間万事一心に収まる如く中りにて究(きわ)まるぞ。」

ここからは聖徳太子と達磨が日本に仏教を伝え、弓道を修学する話が続きます。日本、弓道(ゆみのみち)と云う言葉にも注目です。

聖徳太子は日本の偉人の代表であるのに、インド人であったとはいかに、また達磨大師と一緒に日本の地で生まれ変わり、仏教を広めようと約束したとあるとは驚きですね。

これもインターネットで調べると、奈良の王子の片岡山という所に達磨寺という聖徳太子ゆかりのお寺があります。

「厩戸御子(聖徳太子)が片岡山を通りかかった時、飢え死にしそうな異人がいたので、食べ物と衣服を与えて助けたが、後日亡くなったことを知り、悲しみ墓を建てて弔ったとき、前世で仏道の総とならんと約束したことを思い出し、万葉集に歌を詠んだ」とありました。このときに詠んだ歌が、万葉集に残されています。

しなてる 片岡山に 飯餓えて 臥せる旅人あはれ
親無しに 汝生まれけりや さす竹の君 はや無き
飯に餓えて 臥せる旅人や あはれ


片岡山で食い物がなく 餓えて斃れている その旅人よ哀れ
親もなくて 生まれたはずがあろうか ご主人はいないのか
飯に餓えて 斃れる旅人よ哀れ


5.万事に弓を用ふ
天竺(てんじく=インド)、震旦(しんたん=中国)、日本に至るまで、万事に弓を用ゆるなり、内伝外伝の法なり、まず人間出生のとき誕生の弓とて(と云って)蟇目(ひきめ)を射る。また、神楽の弓とて行いあり、佛神の前座、または祈祷の始め、いずれも弓を除くことなし、また五穀の守りには星の弓とてこれに万々の法あり、わざとここに記さず。
人の死して後に、梓弓と云って霊の弓に乗ると云うことも、これ神道なり、これを人間は皆々見ながら知りながら疎かに、行事は木石よりも愚かなりと云えり。また、釈迦如来は五歳の御年より弓を射て、弓の徳によりて苦しみありて、覚(さと)り起こして佛王となり給う。


6.聖徳太子と弓道(ゆみのみち)
意趣(様々な事柄が弓に関連していると書いた意図)は、ことごとく(聖徳太子と弓道を云うためである)。
太子(厩戸皇子)五歳の御年に、南殿にお遊びて諸侯の衆にのたまうは、「我この世に出生しけるとき、虚空(こくう)に物の鳴けるは如何にと聞き給う」、官人返答申しけるは「それは御誕生の蟇目(ひきめ)の音にや」と申しけれ。
太子、弓の道の者を召して、弓の由来を尋ね給うに、日月の由来、陰陽の二神、弓一筋の位、天地の相応、鳥類の双羽、有性非性の根源迷道は弓より起こると言上申せば、太子聞き分け給い。
太子、弓道(ゆみのみち)を修学し給いて、弓力に達して後には、弓に鉄の筋金を通して用い給うなり。
秋の半月に詠(えい=歌を詠む)じて遊び給うに、虚空より御前の庭中へ光物(ひかりもの)落ちてしばしあるなり、不思議に思し召して天を仰ぎ見給えば、月の中に妙(たえ)の形あり、空より聲ありて、我は光物の形ぞよく覚(さと)れと聞こえければ、太子この光物を心中にうつし覚え給いて御覧ずれば、灌頂(かんじょう)という二文字にてぞありける。
太子この二字を覚り給いてより、佛道を起こして十九の御年に王位を降り、妻子を捨て給ひて修学の上で末世(まっせ)に至りて、佛の総(ふさ=長、灌頂)となり給へるなり。これ弓の徳より起こりたるなり。
この二字の「灌頂」と弓の疎心(そしん)を受けぬれば、諸仏も終わりて唯心の究(きわみ)なり。一神(いっしん)と云うは中りの事なり。灌頂受戒(じゅかい)の人といえども、一行の究(きわみ)無きには伝ふべからず。

少し前の世代には、聖徳太子が懐に居れば豊かな気持ちになれる大変ありがたいお方でした。また十七条の憲法を定め、仏教を広め法隆寺などの由緒ある寺院を多数残してくれました。さらに、中国や朝鮮などの大国にも、日本国(ひのもとのくに)の隆盛を知らしめた偉人です。

用明天皇の皇子で推古天皇の時代に摂政となり、国力を高めたことは日本史で学びましたが、弓道を修学して達人となり、「弓に鉄の筋金を入れた」とあります。このことから、達人の事を「筋金入り」と云います。この聖徳太子の射法は「太子流」と呼ばれました。

それにしても、誕生の際に行われた「鳴弦(めいげん)の儀(魔除けの儀式)」の弦音を聞き覚えていたとは凄いです。

弓道という言葉は最近(戦後)になって使われ始めたと思っている人は多いですが、聖徳太子の時代(西暦530年)から使われたようであり、遅くともこの伝書が書かれた1550年頃には日置流竹林派は弓道と云っていたのです。

灌頂とは仏教において佛となる洗礼の儀式であり、仏道最高位を継承するものです。竹林派(流)は流祖が僧侶であったので、流派の最高位を相伝(唯授一人)する伝書(秘伝)の名称を「灌頂の巻」と名付けました。このため、聖徳太子の伝説の「灌頂」には仏教と弓との二つの意味が重なっています。

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