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12-22 「射法本紀」概略

土岐の徳田先生から「射法本紀詳解」という貴重な文献を頂きました。

原文である「射法本紀」は聖徳太子の御撰によると言い伝えられた非常に古い書ですが、これに本多流流祖の本多利実先生が解説を加えたものが「射法本紀略解」です。
射法本紀(本文のみ)

「射法本紀詳解」は本多先生の著書を根矢鹿児(本名:根矢熊吉)氏が編集して出版したものと思われ、明治43年刊(根矢熊吉編/大日本弓術会発行)と大正12年刊(根矢鹿児著/大日本弓道会発行)があるようです。徳田先生から頂いた文書は明治43年版を常用漢字及び現代仮名遣いに改められたものです。

本多利実門下の青年組織(根矢氏が設立)を前身とする大日本弓術会は、大正8年の財団法人化に際して大日本弓道会と改称しました。大正12年版で根矢氏が編集者ではなく著者となっているのは、大日本弓術会が分裂して大正5年に本多利実先生が他の団体へ移籍したことに関係するのではと怪しむところです。

また、明治43年版の小文字括弧書きで区別されている部分(編集者注か?)が、大正12年版では本文へ取り込まれていたり削除されているところがあり、どこまでが本多先生の解説なのか判然としません。国立国会図書館デジタルアーカイブには明治43年版大正12年版も収蔵されていますが、原典をご覧になる場合は両方ダウンロードして対照する方が良いでしょう。

尚、大日本弓道会については体育学研究63巻1号掲載論文「大日本弓道会の成立・展開と組織形態」に詳しく述べられています。

それはさておき射法本紀は非常に面白いので、本多先生の解説を私なりに要約しつつ補足を加えて概略を紹介します。原文読み下しは太字で示します。なるべく原文に忠実な表記としますが、古い字は読み難いので、漢字や仮名は徳田先生版に準じます。

まず、本多先生は「射法本紀」の書名についての解説と由緒を、まえがきとして最初に述べています。

まえがき

射は弓を射ると読み、己が矢を発して、これを遠くに至らしむことである。即ち、射と云う字の意味は身篇に寸と書いて、身は一定の規矩に従って、矢を放つことを云う。法は法則、規矩、曲尺、条理、などを文に顕わして、常に変わらざる事を云う。本は根幹であり、法則によって生ずる事柄を示し、その法則の動かし難きことを本と云う。紀は紀綱の紀であり、縦糸を意味する。物の統一をはかり、物をくくり纏めることを云う。すなわち、射法本紀と云う書名は、弓を射る原則の紀綱を云う。

竹林派的に補足すれば、射という字は「己が身の寸法を基準に、形を定め、骨相筋道に射る義なり」と解釈できます。続いて本多先生は由緒について以下のように解説しています。

この書が聖徳太子の御撰によると云われているが、古より言い伝えられたと雖も、それはすこぶる疑わしく、その著者名も書かれた年号も記載がない。しかし、これが後世の人物による偽書であるとしても、その文章の綾といい、述べる事項の秩序的な内容はその一字一句が現代の弓を学ぶ者にも規範となる精緻な記述であることを考えれば、その著者は必ずや文武両道に練達した士であったことは明白である。また、この書が今日に至って貴重とされるのは、その著者が誰であるかではなく、その内容が現代の我々弓道人にとって重要視されることにある。とにかく、この書は他の弓術書と共に彼の三島明神の神庫に秘蔵(奉納)されていたものであり、日置流竹林派の始祖竹林坊如成が請け出して世の中に伝えたものである。これは我が国の弓術書として最古のものであり、中国の弓術書である「射学正宗」をも凌ぐ良書である。

ここで「他の弓術書」とあるのは伊賀の日置弥左衛門から代々伝えられた書だと考えられます。以下に日置流の伝承と時代的背景について補足しておきます。

▼日置流の伝承
竹林流(派)の伝書(四巻の書)の註釈に「日置に二流あり、伊賀の日置弥左衛門範次(1394〜1427年)と大和の日置弾正正次(生没年不詳)の流れなり、当流は伊賀の日置なり」とあります。二人の関係は同一人物が移り住んだ、あるいは兄弟とする説もある伝説上の人物ですが、日置を名乗る人物はこの二人だけです。

▼伊賀日置の継承
日置弥左衛門(伊賀国)が1418年に安松左近丞吉次(伊賀国)に、安松は1505年に弓削甚左衛門繁次(近江国)に伝授しましたが、弓削繁次には相伝すべき者がいなかったので、弓術書を悉く三島明神に奉納してその継承は中断しました。後年、近江国蒲生郡須恵(現在は竜王町須恵)在住の北村(喜多村)竹林坊如成という僧侶が弓削氏(繁次の子孫か)から伊賀日置流弓術を学び、悉く習得し妙を得て、1551年に三島明神の日置流弓術書を請け出し伊賀日置を再興し、日置流竹林派と呼ばれました。

▼大和の日置の継承
日置弾正正次が近江国蒲生郡雪野山の川守城の吉田重賢に相伝し、ここから吉田一族は弓術師家として隆盛を極め、日置・吉田流と云われ、出雲派、印西派、雪荷派など各派の遺跡もこの竜王町の周辺に散在しています。

▼三島明神
伊賀日置の弓術書が奉納された三島明神は静岡の三島大社ではなく、竜王町の須恵と弓削の近在にある左右神社が昔は三島明神と呼ばれたと云う文献があります。

▼竹林坊が務めたお寺
確証はありませんが、日置・吉田流の本拠地である川守城のすぐ近くに阿育王山・石塔寺(アショーカ王山・いしどう寺)という古刹があり、聖徳太子がインドのアショーカ王を奉って建立したと云われています。竹林坊は石堂寺の住職となり吉田家の祈願僧を務めていたという記述があり、このことから竹林坊が北村から石堂に改姓したこと、およびこの書が聖徳太子ゆかりの書と云われること、さらに竹林流伝書の「灌頂の巻」に「聖徳太子、弓道を修学し給いて、弓力達して後、弓に鉄の筋金を入れて用い給う(筋金入りの由来)」と記述していることなどは石塔寺に関連して頷ける事柄です。

本多利実先生は尾州竹林派の星野勘左衛門から別れた同流江戸派の道統を継承したので、引き継いだ弓術書からこの書を見出し、詳しく解説したものと思われます。

次に射法本紀の本文へ移ります。章や節等の項目番号は読者の便宜のため私が加えました。

射法本紀図解(大正12年)

序章

上皇初代の時。魔障神、天の政を妨ぐ。皇天、弓矢を造り、これを射る。これ射術の始めなり。

上皇初代(神代の最初の天皇)の治世の頃、魔障神(ましょうじん)と呼ばれ朝廷に従わない輩が天皇の政治を妨げ反逆した。皇天(こうてん)は自ら弓矢を造らせ、これを用いて天下を平定し給うた。これが射術(しゃじゅつ)の始めである。この頃の射法を日本(やまと)流、あるいは尊(たける)流と云う。

我国の太古の弓は魏志倭人伝に記述があります。「兵用矛盾木弓、木弓短下長上、竹箭、或鉄鏃或骨鏃」とあり、3世紀の頃から上が長い長弓を使用していたことが判ります。また、日本流は古代の流派で、大和流は江戸中期の森川香山が始めた流派です。

射術を習うに三つあり。一に的術(てきじゅつ)、二に弓術(きゅうじゅつ)、三に力術(りきじゅつ)なり。

射術を習うに三つ法があり、さらにその中にも三つの則があるとして、射術を三章、九節に細別して記述している。

第一に的術とは的を狙う術(方法)である。的術を第一に置くのは大いに意味がある。射に限らず何事もなすためには的(目的)が必要であり、明確に定めた後に実行することである。的術はその的を如何にして明瞭に視る術、目瞬しないで集中する術、的を引き寄せて大きく見る術を論ずるものである。

第二に弓術とは、的術で的が明確に定まれば、これに中たる方法を講じるものである。弓術には押す・引く・分れるにおいて、如何に押すべきかの術、引くべきかの術、分かれるべきかの術(方法)を論ずる。

第三に力術とは、的術、弓術の術が定まれば、それを正しく円滑に行うために、体を如何に働かせるかを論ずるものである。これには各自の体質(生得、質得、習得)に関連して諸法を修練し、務めれば得るもの大きい(功ある)ことを論ずる。

礼記射義においても、「心身を正しく、弓矢を持ること審固にして、然る後に(筋骨を用いて弓矢を射れば)以って中ると云うべし」とあります。審は目当て、あるいは狙いを云うので、的術と同じ意味と云えます。

第一章 的術

其の一(的術)に三つあり。一に視術(しじゅつ)、二に目術(もくじゅつ)、三に妙術(みょうじゅつ)なり。

1-1.視術

一に曰く視術。
両眼一視して、目精(もくしょう)二筋にしかず。如何にしてこれを試みん。
初め一指(いっし)を立てて、誤って二指(にし)に見る。
右を以って正とし、左従うときは、即ち両眼一筋に行きて、而して一を一に見る。
一に見るといえども、いまだ目眩(めくらまし)を解(かい)せず。
静定の自視自眼を以ってすれば、即ちその目眩(げん)せずして、しかも明白快然たり。


的術の第一節は視術であり、これは的を明白に視ることを論ずる。

1)両眼にて一つの的を視るに、眼精が集中しなければ二筋に見えることがある。これは悪いことであるので、如何にすればこれが一筋に見えるかを試みる必要がある。

2)初心のうちは、一本の指を眼前に立てて茫然と見れば、誤って二本に見えることがある。

3)視術の修行は、右目を正として、左目は従として見れば、両眼で見ても一筋となり、一本が一本に見えるようになる。

4)しかし、一本に見えても、まだ目眩(くらむ)ことがあれば、解決ではない。

5)さらに修行し、心を静かに定めて、自然に視ることができれば、自然に眼は定まり、目眩まずに明白に快然(はっきり)と見えるようになる。

人間の視力は両眼で見るとき、物に焦点を合わせることで、立体的に見えるようにできています。遠くの的を凝視する時、的は明白にはっきり見えますが、手前の弓は茫然として二本に見えます。しかし、弓に映った狙いを確認しようとして弓を凝視すると、弓は明白になりますが、的が二つになって惑うことになります。的と弓との両方を同時に凝視することはできません。この場合、遠くの的が目的であり、手前の弓は目的ではないので、的を凝視したまま、心静かに定めて自然に弓を透かして視れば、的は明白にはっきりとしたまま、弓を透して映ってくるものです。

1-2.目術

二に曰く目術。
一視(いっし)正澄(せいとう)にして、而して目瞬(まばたき)無きを得る。
初め矢を発すれば、目瞬をなす。故に鏃的(やじりまと)虚昧(きょまい)なり。
意虚(むな)しく、目奪(うばわ)るによるなり。如何にこれを治(ち)せん。
空弓(からゆみ)を発して、意をおいて正淳(せいじゅん)に安(やす)んず。
これ以って、これを習わば、即ち目瞬をせず。おのずから目澄(みはる)によるなり。


的術の第二節は目術であり、目瞬きをしないように、目の使い方を論ずる。

1)両目にて一つの的を見るには、正澄にして(真っ直ぐに目を見張る)、心気を静かに治め、眼精を穏やかにするとき、目瞬きしないで行えるようになる。

2)初心のうちは、矢を発すれば目瞬を生じるものである。そのため矢は虚しく空を切り、的に的中しない。

3)それは心が虚しく、目を奪われて空虚となるためである。如何にすればこれを治すことができるかを考えてみよう。

4)これには、空弓(矢を番えず弦を放す)を発しても、目瞬きしないように意を強く置いて、心も目も奪われないように、正しく素直に、自信もって修練するのが良い。

5)これを習得できれば、目瞬きすることなく、自然と正しく目を見張ったまま、射を行うことができるようになる。

1-3.妙術

三に曰く妙術。
小に於いて大となる。的を見るに精妙(せいみょう)なり。
初め弓を引きて、而して寸的(すんてき)を見る。その量は銖(しゅ)の如し。
紛らわしきを脱し、惑いを解き。的を見れば、その量は図の如し。
態達し、気達して、而して的を見る。図量は倍の如し。
変(へん)なり、化(か)なりて、而して的を見れば、その大きさ囲(い)の如し。これ妙成(みょうせい)という。


的術の第三節が妙術である。妙と云う字は「たえ」とも「詳しく」とも読む。

1)視術・目術を修学し、妙術が暫時(ざんじ)の位から、巧妙(こうみょう)の位(段階)まで自得(じとく)が進めば、小さき物を見ても大きく見えるようになる。さらに修練して的を見るとき、心は正しく素直によこしまなく、目は正しく見張れば、妙術は精妙(せいみょう)の位となり、狙う的は不可思議な程大きく見えるようになる。精妙とは詳しく不思議なりと云う事である。

2)初心のうちは、一寸の的も一銖(硬貨)のように極めて小さく見えるものである。

3)修学して視術・目術を自得すれば、的が紛らわしく見えることも無く、目が眩んで目瞬きする惑いも解決し、的は実物大の大きさに見えてくる。

4)修学して視術・目術・妙術において、その状態が術に達し、心気は正淳に達すれば、的は大きく二倍にも見えるようになる。

5)さらに修学に励み、精妙の域に至れば、応用変化(へんげ)となり、的はひと抱えもある程(囲い)に大きく見えるようになる。これは妙成と云い、妙術の達成である。

このようになりたいものですが、これを会得するのは大変難しいです。弓術書に「雪の目付」、「一分三界」、「引っ取り」、「中り拳」などの教義があり、これらは「的を弓手に引き寄せる」など狙いの極意であり、この妙術と同義のものと云えます。

第二章 弓術

其の二(弓術)に三つあり。一に押術(おうじゅつ)、二に引術(いんじゅつ)、三に分術(ぶんじゅつ)なり。

2-1.押術

一に曰く押術。
左臂(さひ)は申(かさ)ぬるに淳直(じゅんちょく)を以ってし、反枉(はんおう)を以ってせず。
懸(か)くるに大胯(だいこ)を以ってし、手掌(しゅしょう)を以ってせず。
押すに躬肩(きゅうけん)を以ってし、手臂(しゅひ)を以ってせず。
肩は落下(らっか)を以ってし、昇上(しょうじょう)を以ってせず。


弓術における第一節は押術であり、弓を押す方法を論ずる。

1)押すには左腕(肘)を伸ばして、真っ直ぐにすべし、反り曲がるべからず。臂(ひ)は一般的には肘を云うが、ここでは腕(かいな)を云う。申(かさ)ぬるとは伸ばすこと、淳直とは真っ直ぐに、反枉とは反り曲がることを云う。

2)弓を押すには虎口で柔らかく押すべし、掌で握り詰めるべからず。通常、懸けるとは馬手を云うが、ここでは弓を押し懸けることを云う。弓を握る手の内は大事な法(規矩)であり、親指と人差し指の股(虎口)で親指の根(角見)にて弓を押し掛けよという意味である。手掌で弓を握り詰めれば、べた押しとなり腕に弱みを生じ、弓の働きを妨げるものである。

3)押すには弓手肩をもって行うべし、手先(前腕)をもって行うべからず。弓手肩にて押すときは、骨法に正しく働き、身体と一致して押すことができるが、手先(前腕、肘)で力むときは、骨法違いとなり、肩が歪み、射法に背くものである。

4)左肩は関節を低く落として行うべし、高く上げて行うべからず。肩が上がれば、射の活用叶わず、行詰まり、業をなすこと能わず。

押術の最初に「左臂」と云う言葉があり、本多先生の解説では臂は腕(かいな)の事であると述べていますが、一般的には肘を意味します。ひじには「肘」「肱」「臂」の三種類の漢字があります。「猿臂の射」という教えがあり、猿腕のように少し撓ませて引き、引き分けから会でこの肘を伸ばしてゆくことで、左右均等に矢筋方向に伸びる離れを生み出すものです。

申(かさ)ぬるは伸ばすと云う意味であると解説し、「かさぬる」と読んでいますが、「しんぬる」と読むのではないかと個人的に思います。漢文や古書では「音通」といって発音が同じ言葉は偏が異なっても同じ意味となります。ここでは申と伸が同じです。

2-2.引術

二に曰く引術(いんじゅつ)。
右臂(うひ)締るに屈直(くっちょく)を以ってし、勾曲(こうきょく)を以ってせず。
懸くるに拇腹(ぼふく)を以ってし、頭高(ずこう)を以ってせず。
引くに身気(しんき)を以ってし、手力(しゅりょく)を以ってせず。
肩は上離(うわばなれ)を以ってし、下着(げちゃく)を以ってせず。


第二節は引術であり、弦を引く方法を論ずる。

1)右腕を締めて引くに、上腕を肘で折って直にすべし、かぎ状に折り曲げるべからず。弦を右肩に引き寄せるとき、馬手肘は後ろの肩甲骨に詰まる味わいで、屈したまま骨相筋道に真っ直ぐとなり、これを屈中の直なりと云う。勾曲とは勾(かぎ)状に曲がることを云い、手首が折れて手繰り、肘尻が曲がって下がるのを嫌うものである。

2)弦を懸けるに、大指の腹に懸けるべし、指先に高く懸けるべからず。掛けは大指の腹の二の節の中ほどで十文字に懸けるのが良い。大指の指先で摘まんで高く懸けて引くときは、力弱く矢に勢い無くなる。骨法崩れて甚だ宜しくない。

3)引くには、身気をもってすべし、手力をもってすべからず。弓を引くことは、もとより身体の力を用いるものであるが、手にばかり力を入れて引くべからず。体力に気力(精神力)が伴わないときは、力みを生じ、胴造り狂い、骨法を崩すものとなる。身体と精神が一致和合して行うことが肝心である。

4)右肩の形は上離れとするべし、下着とするべからず。上離れとは離れのことではなく、右拳が肩から上に離隔しているものを云い、下着とは右拳が下がって肩関節に近いものを云う。上離れは骨法に合致しているので、離れが軽く出るが、下着が過ぎれば肩にもたれて、緩みやすく離れ難くなる。

原本における引術の内容の順番はこれと違いますが、押術の順番に合わせて、入れ替えてみました。二つを比較してみると、同様の項目が対峙しますので、別々の話ではなく釣り合って働かせることがよくわかります。上離れについても程々が良く、過ぎる時は宜しくありません。

2-3.分術

三に曰く分術。
持(じ)するに無為(むい)を以ってし、意為(いい)を以ってせず。
切(き)るに自期(じき)を以ってし、吾が意(わがい)を以ってせず。
発(はっ)するに調子(ちょうし)を以ってし、手作(てつくる)を以ってせず。


弓術の第三節は分術であり、分術とは弓を引き収めてより矢を発するまでを云う。これは両方の拳・腕が左右に分かれるので分術という。

1)会を持つには、無為にて行うべし、故意にて行うべからず。持つとは、保つ、抱える、会とも云う。「無為」とは解釈が非常に難しいが、「何もしない、無駄な働きをしない、ことさらに手作りしない」と云うことである。すなわち、会を持つには、押し引きともに素直に真っ直ぐに働かし、無駄な働きをしないことが肝心であり、故意に力を働かせるべきではない。初心者が「何もしない」のは無為と似ているが、それは空であり、空は無為ではない。また、無為を「無念無想」と混同する人もいるが、それも間違いである。無念無想は念ぜず想わずと云い、心気の働きをしないものである。無為は心気の働きがあって、これを外部に現さないものである。全くの無念無想では弓は引けぬものである。

2)切るには、自期を以って離れるべし、我が意を以って放すべからず。切は体力により離れることを云う。自期を以ってとは、自然に来るべき時期に至って、無為のままに離れるべしと云うことである。我が意を以ってせずとは、まだ時期に至らぬのに「よし放して中てよう」と心を動かして故意に放すことを云う。

3)発するには、調子を以ってし、手作るを以ってすべからず。発は心気により離れることを云う。心気より離れるには自然の調子なるものがあり、この調子を違えずに射ることを、発するに「調子を以ってし」と云い、この調子を外れて、手先にて放すことを「手作るを以ってせず」と云ったものである。

以って精(くわしき)に至り、極(きわむ)るに至り、而して態(たい)成る。

以上の弓術を修練し、精緻に至り、極に至り、射形成就する所を態の完成と云う。修行の段階を云うものでこれにより定まる。兎に角、得難きは修行にあるなり。

現代の弓道では、調子をもって離れるのは「調子中り」と云って嫌う傾向があります。それは安易で浅はかであり、精神性を感じられない言葉からであろうと思います。しかし、振り返ってみれば、調子外れの射は居着き、しがみ、膠着して、緩みとなり、あるいはビクを生じたりして勢いを失い易いものです。したがって、業は規矩に従って行うが、音楽にリズムやテンポがあるように、自然に伸びる調子を保って軽く勢いよく離れるのは肝要であると思います。

第三章 力術

其の三(力術)に三つあり。

力術(りきじゅつ)は本書の三大綱目の終わりに位する所であり、各自が天稟に有する力を活用して、以って之を射術に有効ならしむる事を云う。この力術にも三つの綱目あるなり。一に生得(しょうとく)、二に質得(しつとく)、三に習得(しゅうとく)なり。

3-1.生得

一に曰く生得(しょうとく)。生得(しょうとく)、他力(たりき)無く、而して弓力(きゅうりき)あり。
これ天性(てんせい)なり。射は修練すれば、即ち妙に至る。


1)力術の第一節は生得の人である。これは生まれつき他の体力は無いのに、弓を引くに限って力ある人であり、天稟の才と云わざるを得ない。

2)これは天性の才能であるので、射は修練すれば自然に法を自得し、次第に上達して、ついには妙を極める段階まで至るであろう。しかし、天性の者は初心のうちから、自然に自得し相応に活用することを知るゆえに、反って横道(邪道)に踏み迷うことがある。このように天性の者と雖も才だけを頼みとするときは道を得ざるなり。要するに、骨法を能く覚えて修練することにある。

3-2.質得

二に曰く質得(しっとく)。
総てに力あり、而して大弓(だいきゅう)を引く。
その態(たい)弓に逆らわざるに在り。
而して、術の強さを以ってし、我が強さを以ってせず。


力術の第二節は質得の人である。

1)この人も天性の体質は総体に力があり、次第に強い弓を引くことができる。これは器用者であるので、弓術の法を早く覚え、初心のうちから、余り習わずとも自然に骨法を自得し、労せずに上達が早く、得あること限りなし。

2)その弓術の業を見ると、弓に逆らわず自然に素直に引くことにある。

3)このように、弓を行うには術の強きによるべし、我が強さによるべからず。術の強さとはここで述べてきた法(規矩)に合わせて行う時は、自然と強みを生ずるものであるが、我が強さに任せて行えば、骨法違いとなり災いをなすこと多い。

3-3.習得

三に曰く習得(しゅうとく)。
押すに弓受けるを以ってし、力強きを以ってせず。
引くに弦受けるを以ってし、力剛を以ってせず。
分くるに身受けるを以ってし、身作るを以ってせず。
発するに術受けるを以ってし、手為すを以ってせず。


力術の第三節は習得の人である。

1)押すには、引く力に釣り合って弓を受け止めるべし、力任せにするべからず。弓受けるとは、弦を引くに従い同じ力が弓を押して釣り合うことを云う。従って、弓を押すには弓受ける気持ちで押すのが丁度良い。これを「押し引き一如」とも云う。弓に負けないように力頼みで押すときは、反って片釣り合いとなり宜しからず。

2)引くには、押す力に釣り合って弦を受け止めるべし、力任せにするべからず。これも同じく、弦受けるとは、押すに従い同じ力が弦を引っ張り釣り合うことを云う。引くには弦受ける気持ちで引くのが丁度良い。弦に引っ張られないように力頼みで引くときは、反って片釣り合いとなり宜しくない。

3)分けるには、総体釣り合って身を受け止めるべし、力任せで身を作るべからず。身受けるとは、引き分けるに従い、骨法正しく筋骨伸びれば、総体は必ず左右が釣り合うことを云う。したがって、引き分けるには身受けるようにするのが丁度良い。弓に負けまい、弦に負けまいとして、無理な力を体にかけることを身作るという。これは反って、骨法違いとなり、体が歪み狂うので宜しくない。

4)発するには、術で受け止めるべし、作為で放つべからず。発するに術受けるとは、骨法を正しく、総体が釣り合い、分術の諸法(離れの自期、調子など)を自得すれば、自然と術法に合って離れることを云い、丁度良い。「手為す」とは手先の力によって作為的にすることを云い、自然の離れの期に至らず、調子を外して放つものとなり、宜しくない。

習得の人とは、その体質は普通であっても、至誠を尽くして修練することにより、段階を経て習得した者です。私達はこの習得を目指して修練するべきです。

終章

是、この射術。務れば、即ち功有り。棄つれば、即ち利を失うのみ。

このように、この射術の諸法を修学し、至誠を尽くして鍛錬すれば、必ずや相応の功績が得られる。生得、質得のように天性の才なくとも、習い得て終には至極に至ることができる。もし、これを道半ばにして諦め棄てるときは、利益を失うのみである。また、この書をどんなに熟読しても、射業を修学せざる時は、全く役に立たず益も無しと云うことである。

この書の「無為=何もしない」、「受ける」の教えは極意であり、手の内にも「嗚呼立ったり」といって、赤ちゃんが握るような無為の手の内があります。これらは長年に渉って修行してきた熟練者が更なる高みを目指すとき、射品射格の向上を目指すとき、貴重な教えとなるはずです。

但し、本書は最も古い弓術書であるので、現代風の「大離れ射法」ではなく、むしろ会の形のままに不動で離れる古流風の「小離れ射法」であると云えます。従って、この考えを頑なに進めると、伸びが止まり、小離れになりやすいので、初心者や若い人には余りお薦めできません。

常に伸びのある射、勢いのある射を目指す方が、こういう考え方を理解した上で、味わいのある射を目指して修行して頂きたいと思います。

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