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11-17 竹林坊、日置流の故郷探訪

平成23年11月5〜6日、学生時代の弓仲間のお招きにより東近江市弓道場での合宿に行ってきました。きれいな弓道場で気持ちよく行射でき、東近江弓道会の皆様とも親しくでき、夜は皆で宴会をして楽しい合宿でした。合宿の内容はさておき、この地は竹林坊の故郷ですので、見て来たことをご報告します。

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▲写真1 蒲生野と雪野山

1.竹林坊如成の故郷

「11-13 日置流から竹林坊への継承の謎」に書いたように、本多流の多々良純氏の「吉田流・竹林派の故郷 蒲生野」というPDFを見て、この地が竹林坊如成の故郷であり、日置流(吉田流)各派の故郷でもあることを知り衝撃を受けました。これについては尾州竹林流の文書にもなく、関係者もあまりご存知無いことがらなので、その故郷を巡ってその痕跡を調べて来ました。

竹林の旧宅があった須恵という小さな集落は滋賀県蒲生郡竜王町にあり、雪野山(写真1)の麓の西に広がるのどかな水田地帯にあり、古代の帰化人(百済人)がもたらした須恵式土器の出土した場所ですが、竹林坊の旧宅、ゆかりについては見つけることができませんでした。また、その隣に弓削という集落があり、弓削甚左衛門に関連していると思われましたが何も見つかりません。

さらに両地区の隣に橋本という集落があり、左右神社(写真2)という古い神社がありました。

伝書によれば、弓削は安松から受け継いだ伊賀日置流の印可を伝えるべき後継者がいなかったので日置流弓術書を三島大明神に奉納し、後年になって竹林坊がこれを請け出して日置流竹林派を興したと書かれています。

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▲写真2 橋本の左右神社

多々良氏の文献にはその三島大明神が現在の左右神社であと書かれており、インターネットの神社検索から左右神社の境内社に三島神社と云う名前を見つけましたが、実際には確認できませんでした。

2.日置流の故郷

須恵から5キロ程度の雪野山の西麓の川守地区に吉田流(日置流)の流祖吉田重賢の城跡(写真3)があり見てきました。吉田氏は戦国大名の六角氏の家臣であり、織田信長の上洛によって主家は滅ぼされましたが蒲生氏とともに残り、子孫が日置流各派に分かれて弓術師家として栄えました。

3)日置流流祖吉田重賢の城跡.jpg
▲写真3 日置流流祖 吉田重賢の城跡

この近郊の葛巻(かずらまき)には印西の館跡、さらに川合には雪荷の館跡があったと云われていますが地元の人も知らず、近くに的場という地名が残っていたものの、その痕跡は得られませんでした。

3.石塔寺探訪

このお寺には竹林坊と関わる情報はもともとありませんでしたが、竹林流の文献では還俗して故郷に帰った竹林坊は石堂寺の住職をしていたとあり、またウィキペディアによれば竹林坊は吉田家の祈願僧であった書かれています。

石堂寺(いしどうじ)をインターネットで調べてみると、この地方には石堂寺というお寺はなく、雪野山から7キロほどにある石塔寺(いしどうじ)の読みが同一であることに思いつきました。

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▲写真4 阿育王山 石塔寺

竹林坊が北村姓から石堂(いしどう)姓に変えたのはここに関連して、漢字を変えて姓を名乗ったのではないかと思い訪ねました。

石塔寺については五木寛之の「百寺巡礼 第四巻」に記述されたお寺であり、聖徳太子が建立しアショーカ王を奉った古く由緒あるお寺です。後に天台宗となり、多数のお坊を配置し栄えていましたが、織田信長の徹底的な焼き討ちにより伽藍も記録文書も全て壊滅しました。

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▲写真5 石段と五輪塔

江戸時代に再建され、現在は美しく静かな境内と巨大な三重の石塔の周りを夥しい数の五輪の塔で埋め尽くされ実に壮観でした。

百寺巡礼の受け売りではありませんが、巨大な石塔にはインド文化、あるいは朝鮮半島の文化の雰囲気が感じられます。この近くには百済寺があり、7世紀に滅亡した百済人が移住してきたのかも知れません。

お寺の関係者にお話を聞きましたが、信長の焼き討ちのため古い記録が残っていないので竹林坊と石塔寺とを関連づけるものはありませんでしたが、境内の巨大な石塔と夥しい数の五輪の塔を眺めるとき、「金体白色西半月」で終わる「五輪砕き」を思い出し、竹林が石堂と名乗ったことに意味があったように思えました。

6)三重の石塔と五輪塔.jpg
▲写真6 三重の石塔と五輪塔

コメント

滋賀県蒲生付近には
弓術は伝わってませんけど
いまだに吉田氏の子孫が存在していますよ
もたれ屋 | 2013/01/22 20:51
コメントを有難うございます。
近江のあたりは歴史的なロマンがあって面白いと思います。
竹林を含めた日置流の故郷と云うことで、少々マニアックな物となってしまいましたので、一般の弓道人にとって退屈なのもになっていないかと心配していましたが、興味を持っていただき嬉しく思います。
sakurai takashi | 2012/03/13 11:55
石塔寺(せきとうじ)と読んでいた時期や石堂寺(いしどうじ)と読んでいた時期があるそうです。
この辺りは渡来人にまつわる地名が多く秦荘町(はたしょうちょう)という町も有りました。佐々木氏の沙沙木神社ととても日本名ではなさそうです。吉田重賢も本名は源重賢と有ります。佐々木氏の庶流なのでしょう。安土も六角氏の矢場だという話を聞いています。あの辺は面白いですよ。
名古屋在住で地元出身ではない人 | 2012/03/09 10:54

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