home >  特集記事 > 星野勘左衛門 経歴の謎に迫る

3 竹林流正統系譜、名古屋市史人物列伝

星野勘左衛門肖像(名古屋富田家蔵、現代弓道講座第1巻より)
▲星野勘左衛門肖像 名古屋 富田家蔵(現代弓道講座第1巻より)

一方、尾張の文献では、尾州竹林流星野派第11代道統の故富田常正先生の著作「竹林流正統系譜」に系譜と略歴が明白に記述されています。また、魚住一郎先生から頂いた「名古屋市史 人物編 弓術の九」に星野勘左衛門茂則の系譜と経歴が詳細に記述され、同一内容となっています。以下名古屋市史抜粋。

九 星野勘左衛門

星野勘左衛門、名は茂則、後浄林と号す。傳右衛門則等の第三子なり。その先は熱田大宮司季範より出ず。茂則臂力ありて、武技を善くし、長屋忠重に学びて尤も射術に長ず。
尾張侯光友の時、弓役となりて俸若干を賜う。
寛文二年五月二十八日京都蓮華王院に堂射をなし、総矢数一万二十五本、徹矢(通し矢)六千六百六十六本に達し、天下一となる。後五百石を賜いて、弓頭にあがる。
寛文八年五月紀州の士葛西園右衛門七千七十七本を徹して天下一となる。
茂則再び天下一たらんと欲し、翌年京師にいたる。
発する前、人に告げて曰く、この行い必ず八千矢を徹さんと。
五月朔(1日)、暮時(午後6時)より射て、二日の正午に至り、総矢数一万五百四十二本、徹矢(通し矢)八千本に満つ。
その射に臨むや態度は寛優そうそうとして余裕あり、黎明かがり火を撤するとき、熟睡して鋭を養う。観るものそのいたずらに時を移して、功を成さざらむことを憂う。
既にして茂則起きて射る。飛箭疾風の如く、一として中間に落るものなし、人みな驚嘆して、その精妙に感ぜざるなし。
茂則既に八千矢を徹し、揚言して曰く、余力尚射るべし、然れども吾いま多数を射らば、後来天下の諸士吾に凌駕するの難きを念いて、堂射ついに廃絶し、射術の衰微を来たさんと、すなわち射をおわり、八千と書して旗幟を作り、馬に騎して所司代町奉行等に詣りて謝辞を述べた。(後略)

このように星野勘左衛門は熱田神宮大宮司の李範の子孫で、尾張家士の大道奉行星野則等の三男として生まれ、弓を長屋六左衛門に習ったとされていて、紀州との関連を示すものは全くなく、尾張藩士で一貫しています。現代でも経歴詐称などで中傷されるのに、あの封建時代では他藩で修行をしてきた脱藩の新参ものがどんなに立派な成績を残しても、このような拍手喝采や破格の待遇は与えられたであろうか疑問に思われます。

また、師の長屋六左衛門も自己の三度にわたる天下一に対する待遇に加えて、星野を育てた手柄でも加増されていること、さらに貞次から唯一人伝授された尾州竹林流の道統を勘左衛門に引き継いでいることから、二人は日の浅い師弟の間柄とは思えません。

(編者注:劇画「弓道士魂」では星野が初めての通し矢挑戦で8,000本を達成したかのように描かれていますが、実際には6,666本で天下一になり、その後葛西にタイトルを奪われ、再挑戦して8,000本を通したのです。この8,000本は余力を残していたとのことなので、どうやら星野はキリの良い数字にこだわりがあったようです。また、今後自分の記録を凌駕する射手が出るように敢えて8,000本で止めたとあるので、劇画のように「民百姓を苦しめる通し矢の廃絶」を殿様へ進言したという事実は無かったと思われます。)

コメント

この記事へのコメントはこちらのフォームから送信してください

記事カテゴリ
最近のコメント
recommend
小笠原流 流鏑馬

小笠原流 流鏑馬 | 小笠原流が各地の神社で奉仕する流鏑馬を網羅した写真集。各地それぞれの行事の特徴や装束が美しい写真で解説される。観覧者が通常見ることのない稽古の様子や小笠原流の歴史についても書かれており読み物としても興味深い。数百年の時を経て継承されてきた古流の現在を記録し後世に残すという意味で資料としての価値は高い。

小笠原流弓と礼のこころ

小笠原流弓と礼のこころ | 小笠原流宗家(弓馬術礼法小笠原教場三十一世小笠原清忠)著。一子相伝800年の小笠原流の歴史や稽古法などについては40年程前に先代宗家の著した書があるが、本書では加えて武家社会終焉以来の「家業を生業とせず」という家訓を守ること、そしてこの平成の世で礼法のみならず弓馬術の流儀を守ることへの矜恃が綴られる。

弓の道 正法流入門―武道としての弓道技術教本

弓の道 正法流入門―武道としての弓道技術教本 | のうあん先生こと正法流吉田能安先生の教えを門人達が記録した書籍。のうあん先生は古流出身ではないが、古流を深く研究した上で現代正面射法を極めた人といえる。射法についての解説はもちろんのこと、伝説の兜射貫きや裏芸といわれる管矢についての記述も読み応えがある。

著者プロフィール
過去の記事
others
東海弓道倶楽部