home >  弓道四方山話 > 巻の拾弐 「文の巻」

12-17 一遍の射、四巻の書、五巻の書、日置流弓術書

竹林流弓術書である「四巻の書」は、私も含め誰もが竹林坊如成の書物であると記述していますが、厳密には竹林坊が書いたのは「一遍の射」という書物です。

竹林坊は天正20年(1592年)にこの書を2代目の石堂竹林貞次(次男)に伝授して隠居しました。貞次はこの「一遍の射」を初勘の巻、歌智射の巻、中央の巻、父母の巻の4巻構成に改訂し、さらに灌頂の巻を加えて認許書(印可書)としたものであす。この4巻を外伝として「四巻の書」と云い、修行の段階に応じて認許(印可)が与えられ、内伝の灌頂の巻は後継者(免許皆伝者)のみに与えられるもので、これを合わせて「五巻の書」、あるいは「本書(ほんじょ)」とも云います。

したがって、これは本来なら貞次の書と云うべきものですが、貞次が改訂・編集という点を謙遜して如成の作としたのかも知れません。また、貞次は身長が低かったので、「ちんちくりん」とあだ名されたという記述もあり、竹林坊の高弟たちと同年代のために軽く見られたのかも知れません。いつの時代にも口の悪い人がいるものですね。

この点の原点からいえば、日置弥左衛門から安松吉次、弓削繁次に伝授され、それを三島大明神から請け出した「日置流弓術書」の内容と「四巻の書」の記述とは如何であったかも興味のあるところですが、それらについては全く判りません。

また、「四巻の書」伝書の注釈を細かく読むと、「七道の順序が狂っているのではないか」とか、「先条に記したようにとあるが書いていない」とか、初勘の巻で五箇の手内には二つしか説明していないとか、「この次に未来身あり」を「これに未来身」と書き間違えるなど、勘違いまで含めて、貞次が間違ったのではないかと疑われている部分が少なくありません。

この四巻の書の本文は極めて簡潔に書かれたものですが、解釈が難しいために歴代の達人がこれに注釈を加え、それが書き写されて伝書として伝えられたものです。したがって、竹林流が正統竹林派、尾州竹林派、紀州竹林派、尾州竹林江戸派など多数の派に別れるとき、その派の達人の注釈が伝承されて異なった解釈にもなっています。

尾州竹林派の伝書では星野勘左衛門茂則の注釈が詳しく丁寧であるのでこのHPで多く引用しました。一方、本多流の生弓会による尾州竹林派弓術書の本書では冒頭に正統竹林の岡部藤左衛門の名前がありながら、七道「打起し」の項には紀州竹林の吉見台座衛門経武(順正)が登場して入り混じっており、星野勘左衛門とは射法の順序の考え方や矢束などの解釈も異なっています。

こんなことは「へんちくりん流」の流派マニアしか興味の無い事かもしれません。

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