11-12 続々・三十三間堂の通し矢
2004年10月号の「弓道」誌に「射法と懸けの関係について(4)」という論文を故魚住文衛先生が書かれています。(実際には魚住一郎範士が編集して投稿されたもの)
その中に、星野勘左衛門が総矢数10,542本を射て8,000本を射通した時に使用した弓が、尾張徳川家の蓬左文庫(徳川美術館)所蔵の「日置流四巻の書」星野勘左衛門指矢の巻に記されているのを紹介しています。またその弓も徳川美術館に陳列されています。
八千の天下一のときより矢束は二尺八寸七分(87cm)。弓のほこ(長さ)は矢束によってきまり、この矢束には六尺八寸(206cm)を用いる。ただし握り下二尺四寸(73cm)。(略)弓の分は六分八厘(20.6mm)、また、弓の幅は八分三厘(25.1mm)でありやや狭く、村取りしている、と記されています。
弓の強さについては2−1「弓の薀蓄」で述べたように、矢束の長さに比例し、弓に幅に比例し、弓の厚さの3乗(^3)に比例し、弓の長さの3乗に反比例します。自分の弓を基準にして想定してみましょう。
私の場合は、弓の長さは並寸、つまり7尺3寸=221cmで、弓の幅が26.5mm、厚さが18mm、矢束が82cmで、強さは約20キロです。したがって星野の弓の強さを今風に想定すれば、
P=20×(87 / 82)×(25.1 / 26.5)×(20.6 / 18.0)^3×(221 / 206)^3
=20×1.06×0.947×1.50×1.23
=37
すなわち、37キロ程度に相当する強弓であったことがわかります。
「11-10 続・三十三間堂の通し矢」では41キロと想定していましたが、やや小さめの数値ながら概ね一致しています。また、弓の厚さを七分五厘(23mm)と想定していましたが、実際は六分八厘(21mm)であり、この差は弓が15cmほど短かい「差し弓」だった影響であると考えられます。
櫻井 孝 | 2006/09/28 木 00:00 | comments (0)
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