10-8 朝嵐、紅葉重ね、先枯れについて
これまで四方山話のなかで、判ったふりをしていろいろ書いてきましたが、今一つ正直言ってよくは理解できていない言葉に「朝嵐」「紅葉重ね」「先枯れ」がありました。一寸勉強しましたので、例によって珍説を述べましょう。
「朝嵐」については、「朝嵐 身にはしむなり 松風の 目には見えねど 音は冷しき(すさましき)」 と言う実に美しい歌があります。「達人の射は激しい朝嵐のようにすさまじく働き鋭く離れているが、あたかも松林の中を朝風がさわさわと涼しげに吹き抜けるように、さわやかに見えるものである」 と判ったつもりで解釈してきました。
しかし、全く別の話で、朝嵐の懸けと言うのがあります。これは懸けの弦枕の溝が親指の付け根ではなく、指の腹の中間にあるもののことで、浅懸けとも云います。浅懸けの何処が朝嵐の歌と共通するのかよく判りません。
浅懸けは現代では殆どありませんが、親指が梃子の作用で起されるので、軽く鋭い離れが出やすいと云われています。このことから朝嵐の鋭さにかけたのでしょうか。
「紅葉重ね」というとまず押手の手の内のことを思います。紅葉重ねの手の内は基本に従って親指、小指、薬指、中指とコンパクトに手の内を整えるとき、中指の隙間がなくなり薬指に重なるようにこじ入れてゆきますと、始めは窮屈ですが、3本の爪が揃い(つまぞろい)、弓に直角で真っ直ぐ(正直の)の手の内ができます。
この手の内は子供のてのように小さくて綺麗な手であると連想して名づけたのではないでしょうか。その点では「嗚呼立ったり」の手の内と同様な意味でしょうか。
しかし、「紅葉重ね」には名人達人が年齢を重ねてはじめて到達する最後の境地を表す意味にも使われます。
「春かえて 秋の梢ぞ すさまじき 紅葉重ねの 嵐吹くなり」と言う美しい教歌があります。またまた我流に翻訳すれば、 「季節が春夏から一杯に茂った梢も秋になると、木枯らしの嵐で紅葉葉がさっと散ってしまうように、達人の射は引き分けから会の働き、詰め合い伸び合い、強みが一瞬の風に紅葉が散ってゆくように、凛として揺るがない紅葉の老木のように悠然としている」
「先枯れ」については、射法訓の最後の「金体白色西半月の位」についての解説に、先枯れて悠然とした残心を表す、と言う判ったようで判らない表現があります。 これも、紅葉重ねとおなじで、骨法にかなった石火の離れに至れば、美しき花、紅葉がハラリと散って立木になるとき、木は微動もせず悠然としている姿を残身にたとえて、先枯れと表現したものでした。
そのような、至極の離れ、微動もしない残身のイメージに少しでも近づきたいと思います。
櫻井 孝 | 2001/12/04 火 00:00 | comments (2)
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コメント
素晴らしいコメントを有難うございます。
朝嵐の離れが、「自然の離れ」を意味するというのは全く同感です。
また、懸け口の働きについての考えも同類の意見を得て嬉しく思います。
しかし、現在の自分は老化現象もあるのか、なかなか思うようにはならず、自然な離れを目指しつつも、緩まないように、暴れないようにと思いながら、達成できない状況にあります。
いつまで経っても思うようになりませんが、元気なうちに自然な離れを取り戻したく思うしだいです。
自然の離れが出た時には、我に戻るもでに間があり、その後、身に染みてくるようなざわつきを感じます。
それは、あたかも突発的な出来事に遭遇した時、一瞬何が起きか分からず、少ししてそれを理解し、或る種の感情が湧き上がってくるのと似ています。
また、自然に離れた時と自ら離したときの区別は、他者からは見分けが付かないものですね。
かけの方は、枕の位置が指先寄りなので、梃子の原理で離れが出やすくなっています。
私のかけもこのタイプですが、自然の離れには適しています。