home >  弓道四方山話 > 巻の八 「石火の巻」

8-14 的に囚われるなとは

弓道の修行において、「的に囚われないように」ということを聞くことがあります。そしてこの言葉の対の言葉として、体が嵌って気力の充実を優先するべきだという考え方を聞くこともあります。確かに、的に拘泥せず、骨法と気を充実させるというとなぜか射品が高いような雰囲気があります。

しかし、このように考えて実行して行くと、矢は前にとびますので知らず知らずのうちに狙いが後ろに行き、どんどん外れてしまっているのに、本人は気づかないことになります。

この考え方は間違いです。弓道の基本である十文字の基準を学んで、的前に立ったと同時に狙いの方法を先生に教えていただき、弓の矢摺り籐に的を写し取って、絶えず自分の矢が何処を向いているかが判るようにならなければなりません。そして、何時でも矢が的芯に向いているようにしなければなりません。このとき弓の左側に半月に的が割って見えるのが標準ですが、顔の大きさ、骨格、物見の深さにも関係します。

的を弓に写し取って矢を正確にすることと両肩をはめることとは矛盾しません。むしろそれを疎か(おろそか)にすることのほうが十文字も崩れてしまうものです。

多くの初心者は矢が前に飛んでいったからと狙いをどんどん後ろに付けているのに、本人はそれが正しいと思っています。これは無知蒙昧というほかなく、左右のバランスは全くわからなくなります。押手が弱いのに後ろに矢が飛びますので、ますます押手を弱く緩めるようになってしまいます。

「的に囚われる」というのは、前に飛んだから後ろに狙いをつける、下に落ちたから上に狙いをつけるように、正直でないことを言うものです。

したがって大三から会に至る弦道(弦のとおるレール)は絶えず的を透かしながら通ってくるものであり、これが繰り返し練習していくうちに目をつぶって引き分けてきても会に至るときぴたりと自然に狙いがついてくるようになる(なかなか達成できないが)べきです。これができたとき、「的に囚われない射が達成できた」といえます。

すなわち、矢は絶えず的芯を向くように気をつけて引き分けるとき、狙いも自然と的芯につくようになるものです。狙いは自分では見えないので先生に教えて頂いて、その位置を矢摺り籐に写し取って覚えこむことが前提条件です。

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