7-16 矢束についての訂正
以前(7-10)に、3つの矢束「引く矢束、引かぬ矢束、ただ矢束」の説明として、「引く矢束は眼一杯力んで引き手繰って引きすぎた矢束である」と書きましたが、これは間違いのようです。 伝書には「引く矢束というは至らぬ矢束なり」と明確に書いてありましたので、これは引き足りない矢束で引くべき矢束ですので、全く逆の説明をしてしまいました。訂正いたします。
また「引かぬ矢束はこれ以上引くべきところが無い十分の矢束」であり、「唯の矢束は漫然とした矢束である」と書かれており、弓道教本にも引かぬ矢束が最も云い良い矢束となっています。
しかし、この件については四巻の書が反語的な、意味深で逆説的な表現をとっているため、解釈が難しくて、伝書の注釈ですら色々な解釈があります。
同じ伝書の後段の注釈においては、以下のように全く逆の解説もあります。
「引く矢束は初心の時に、業をなるべく大きくなさん為に十分一杯に引きつける限り引かせて射させることを云う。」
「引かぬ矢束とは五部の詰めの規矩いまだ定まらぬ故、縮みて十分に至らざる云う」
「ただ矢束は五部の詰めの規矩に叶い、長短なく骨法の丈に過不足なき納まる矢束である」
と注釈し、ただ矢束が丁度云い矢束であると逆のことを言っています。
素直な書き方であれば、「過ぎたるもの、及ばざるもの、中庸のもの」となるべきで、本来そのような表現であったと思われ、それなら誰も誤解しないのですが、まともな表現では面白くないとして捻った解釈をしたために、この中庸が唯のつまらぬものとして否定されて、難しくなってしまったと思われます。尾州竹林流の故魚住先生は弓道教本とは解釈が異なることを断って、唯矢束を丁度云い矢束と言っており、私も引く矢束をこの解釈としたものでした。
しかし、四巻の書の最初の書き出しは明らかに上述の文章であり、多くの弓道教歌からは殆どが「引かぬ矢束」を丁度云い矢束としています。
誰もが、過不足なく丁度いい矢束がいいと理解しているにもかかわらず、「引かぬ矢束」が丁度いい矢束になってしまっているのです。国語表現を捻って言いまわすと、玉虫色になってとかく難しくなりますね。
櫻井 孝 | 2002/12/03 火 00:00 | comments (3)
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コメント
四巻の書を拝読していると、随所に「口伝せよ」が出てきます。その口伝を聞いてみたいものです。
>「口伝せよ 矢束と鞭と力革 長きをば継げ 短きは切れ」
>これも言葉通りの解釈は無理ですね。
これはホント、長き矢に箆継ぎすると四半的弓の矢みたいになりますね。短きを切ると、引けないじゃないか!ということになる(笑)鞭と力革も「いったい何??」というところですね。
またいろいろとご教示いただけましたらありがたく存じます。
しかし、私は四段のままの古漬けですので、先生は止めてください。
矢束に関しては7−20に続編を書いています。
尾州竹林流の教歌では
「引く矢束 引かぬ矢束に唯矢束 三つの矢束をよく口伝せよ」とあります。
「この「口伝せよ」というのは、伝書は他流も読むので、混乱させるためにわざと難解(逆説)にして、本当のことは口伝で伝えなさいという意味です」と魚住一郎範士から聞きました。
まさにこのために混乱しているようですね。
また、同じような教歌もあります。
「口伝せよ 矢束と鞭と力革 長きをば継げ 短きは切れ」
これも言葉通りの解釈は無理ですね。
ここ最近、魚住文衛先生の『四巻の書 講義録』を拝読しておりまして、この項目に疑問を感じていました。弓道教本では、
×引く矢束→離つ
〇引かぬ矢束→離れ
×ただ矢束→離さるる
に対応している、とずっと理解しておりました。しかし、魚住先生の解説を見て、「僕は間違えて覚えていた?!」と思い、焦っていたのです。さらに、富田常正先生の「尾州竹林流四巻の書註解」を拝読して、さらに混乱しておりました。こちらも“ただ矢束”を善し、としているようです。
最近、櫻井先生のこのサイトを見つけまして、拝読させていただいております。教歌を、解釈する先生の教示により変化するのですね。
>尾州竹林流の故魚住先生は弓道教本とは解釈が異なることを断って、唯矢束を丁度云い矢束と言っており、私も引く矢束をこの解釈としたものでした。
という部分を見て、安心しました。「間違い」とか「正しい」とかいうことではない、大切なのは筋肉骨道に従って、ということが肝要なのですね。
実は、高知には年1回、宇佐美義光先生が指導に来てくださっておりまして、私は毎年この機会を心待ちにして、1年修錬を積んで、観ていただく、ということを続けております。宇佐美先生の教えを一言もらさず理解したいと思い、四巻の書を冒頭から読み返しているところです。
またいろいろと勉強させていただきます。ありがとうございます。