home >  弓道四方山話 > 巻の壱 「天の巻」

1-27 骨法、あるいは骨相筋道について(其の三)〜自分の体を意のままに操ること〜

普段の生活では自分の体を自由に動かすことは至極簡単で当たり前のことですが、弓道では自分の体を意のままに操ることが意外に難しいことが問題です。

1.総体の歪み


弓矢なしの場合には、背骨を真っ直ぐにして両腕を水平に伸ばして保つことは誰でも簡単にできますが、いざ的に向かって引くとき、なぜか体が歪んでしまいます。

五胴(係る・退く・伏す・反る・中の)では中胴が正しいのは常識ですが、負けまいと頑張って推し引きするとき、胴造りも三重十文字も縦横十文字も歪みます。しかし、これらの歪みを自分で認識できないので、どうしたら正直にできるかが難しいのです。

弓道教歌に「口伝せよ 押していたずら 引く無益 父母の心を 思いやるべし」とあります。弓手を突っ張って推し、馬手も負けまいと無暗に引っ張るとき、左肩が出て右肩が逃げ、縦横十文字が崩れて失敗します。引き分けは、弓手を押し馬手を引いて拡げるイメージがありますが、じつは両肘の間は共に押されて対称に働いています。だから「引き分け」と呼んで、左右の肩が片釣り合いとならないように(これを父母の釣り合いという)考えることが大事であると云う意味です。

2.手の内のゆがみ


弓手手の内は弦を引かないで握るとき、綺麗な中押しの手の内を作ることは容易です。しかし的に向かって引き分けるとき、手の内は潰れ、べた押し、入り過ぎなどの悪い形(弓手の十文字の歪み)となり、効きません。これは弓からの力を虎口で真っすぐに押すことができず、負けて潰れるため、あるいは弓を捻ろうとして握り潰すためです。

馬手手の内も、徒手あるいはゴム弓で行うとき、親指を水平に保ち丸く張りのある綺麗な形を作ることは難しくありません。しかし、的前で引くとき弦に引っ張られて、馬手はしがみ、手首や指先に力が入って、親指が斜めになって悪い形(馬手の十文字の歪み)になりやすいのです。

3.調子中りと悪癖


こうすれば良く中るとして、骨法を用いずに体を固め、矢が前に逸れるときは狙いを後ろに着け、ただ同じように繰り返す射は悪癖の射です。このようにしても中りは出るものですが、この中りは調子中りと云って一時的なものであり長くは続きません。

このような射は、片釣り合いとなり縦横十文字が歪み、日を経るごとにますます頑固な悪癖となります。これを直すには師匠の正しい指導が必要ですが、弟子は自分の骨の曲がっていることを知らないので、教えられると違和感があり力が弱くなった気がして中りも止まり、師の教えに背くときは一生涯治らないものとなります。

4.力の強い弱いは関係ない


「四巻の書」の序文に、弓道修行に入門する初心者に激励の言葉があります。「三體(総体:骨・肉・皮)、父母より譲り受けたるもの、剛なりといえども我が手柄にあらじ、弱なりといえども我が恥にあらず」とあります。

ただ、体の剛弱を気にすることなく、修行に励むことが大事です。懸命に修行鍛錬すれば、水が岩を平らにし、刃金が鉄を削るように、総体は強くなります。剛は弱を謗らず、弱は剛を妬まず、我が骨格のままに筋骨行き渡るときは、矢勢格別なり、です。

各々の骨力を以て程々を考え、先急ぎせず一段ごとに上り修行に励めば、順々に力がつき、強弓も意のままになります。しかし、急に段階を超えて弓力を上げるとき、骨法を破る元であり血気勇むにより、一生涯弓に迷うことになります。

このように、「弱き骨相でも稽古円満すれば、弱き弓にても強き弓に優る」ものです。

5.五部の詰めと五緩


総体の五か所、剛の詰め(弓手手の内)、左肩の詰め、胸の詰め、右肩の詰め、肘力の詰めに剛みを持って、関節の隙間に(くさび)を詰めて確りとする意味です。

しかし、この五か所それぞれの詰めが緩むのが五緩と云う悪癖になります。これは詰めを縮めると考えると伸び合いが止まって緩むためです。

会のバランスとしては、弓手手の内と馬手肘尻が張り合い、弓手肩口と馬手肩口が釣り合うことにあり、この四か所が胸の中筋を不動にして詰め合うという規矩です。しかるに、体の関節は両手の内、両肘、両肩と六か所あり、これに胸を加えれば七か所となるので、自分の考えでは七部の詰めとも考えています。

6.四部の離れ


この後に胸の中筋に従い宜しく左右に分かれるように離れをだせば、弓手手の内、馬手手の内、弓手肩、馬手肩の四か所が同時に割れて「四部の離れ」となります。

五部の詰めには詰めの轄(くさび=車の輪を軸にとめつけるくさび。建築に使うような固定楔ではガチガチに固まって離れがでなくなるが、車輪止めの轄は回転を止めず確りする意。)を用いて詰めを確かめますが、離れはこうして固まった胸の中筋に割り楔(くさび=小さな力で左右に割るための大きな力を発生させる道具)を打ち込み、大石が割れるように電光石火の離れにより、一瞬に矢が飛びだします。これを射法訓では五輪砕き(ごりんくだき)から引用して、「鉄石相剋して火の出ずること急なり」と書いています。

※初出時、轄の注釈を車輪の下に差し込んで固定する輪留としていましたが、編集者(峯)の間違いでした。著者の意図通りに修正しました。

7.矢束のこと


縦横十文字を保ち、弦道を通って引き分けるとき、会は矢束によって定まり、すなわち「過ぎたるものも及ばざるものも不可であり、適正なものを真の矢束と云う」。しかし、これは射法の肝心であるとして、昔の弓術書は難しく表現し、口伝にて伝えたため、言葉の解釈が異なっています。

弓道教本では、「引く矢束 引かぬ矢束に ただ矢束 放つ放れに 放さるるかな」とあり、引く矢束は手先の技で放つ、引かぬ矢束は心気充実して満ちて離れるもの、ただ矢束はただ保持しているだけの状態であり、引かぬ矢束を適正と解釈しています。

竹林の伝書には「引く矢束 引かぬ矢束 ただ矢束 三つの矢束を よく口伝せよ」、「矢束は骨相筋道に従い極まるもの也。矢束極まる処骨相筋道に叶ひたる也」とあります。註釈には「引く矢束は五部の詰めに付き短きぞ、引くべき矢束なり。引かぬ矢束は骨相に付き長きぞ、骨筋を外して引き過ぎたる矢束ゆえに、引かぬ矢束なり。ただ矢束は世間のことよ、あるいは我儘なる矢束のことなり」と、とぼけて表現しています。

世間のこととは矢尺を決めるときのように、ただ自分の両肘を水平に伸ばした長さに伸びの分を加えた長さのことで、我儘なる矢束とも云い、次に述べます。

「ただ」という重みのない言葉に惑わされて、「そのまま」という素直な言葉を否定したために解釈が異なりましたが、「適正な矢束」があることは共に同じです。

引き足りない矢束では骨法に嵌らず、引き過ぎた矢束では伸びることができなくなり緩んで骨相筋道に叶わない。適正な矢束まで引き分けた会は、左右が釣り合って伸びがあり、骨相筋道に叶うものです。

8.射は我が身を寸とするもの


「射」と云う字は身に寸と書きます。その心は我が身の骨格寸法を基準とするとき、丁度よい矢束が決まり、自分に合った射形が定まるという意味です。これを我儘なる射とも云いますが、それは決して我儘な(自分勝手な)射ではなく、我が骨格のままの正直な(正しく真っ直ぐな)射です。

言葉遊びのついでに、「直ぐに引いて、直ぐに離す」とは「雑に引いて、早気で離す」と解釈されそうですが、私は「体を真っ直ぐに保って引き分け、真っ直ぐに離す」ことであり、雑な早気の射ではなく、これも正しく真っ直ぐな伸びのある骨法の射です。

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