home >  弓道四方山話 > 巻の拾壱 「流水の巻」

11-19 弓道の概略史

1)古代の弓
・日本の弓は、「魏志倭人伝」「上長下短の木弓、竹矢に、骨又は鉄の鏃を用いる」と云う記述があります。三世紀ころの時代ですが、現代と同様な長弓が用いられていたことが判ります。中国大陸の弓は上下対称の短弓であるので、珍しいという印象をもったと思います。

・源平から鎌倉時代には武士の最高の武器として、弓は日本刀と同様に発達し、竹と木を組み合わせ膠で接着し、漆塗り、籐で巻く技術が発達し、日本弓の原型ができたと考えられます。源為朝は鉄の弓を用いたと云われていますが、心材のヒゴに鋼(筋金)を入れたのかも知れません。平家物語の那須与一が船上の扇の的を射た話は有名です。また鎌倉源氏の小笠原流、武田流は古い武家の射術、装束、しきたりを連綿と現代に伝えています。

2)中世の弓
・室町時代に日置弾正正次(大和)、日置弥左衛門範次(伊賀)と云う伝説上の兄弟が弓術を確立し、弓術書(伝書)を伝えました。日置弾正は近江の豪族吉田重賢に相伝し、日置流(吉田流)と呼ばれました。江戸時代には鉄砲が禁止されたので、武士の修養として弓術が盛んとなり、中でも日置流は出雲、印西、雪荷、道雪、大蔵など十数派があり隆盛を極め、現代に至っています。

・日置弥左衛門から数代を経て、竹林坊如成という天台宗(修験宗)の僧侶が伊賀日置の弓術書を継承して竹林流(日置流竹林派)と呼ばれました。竹林の伝書には吉田流とは別の流れであると記述されていますが、竹林坊の居館は吉田城のすぐ近傍にあり、また吉田家の菩提寺の住職を務めたと云われているので、吉田流本家で修業して極めましたが、射法の考え方の違いなどから袂を別って、別の流派であるとしたのかも知れません。

・竹林坊如成は近江から名古屋に移り、尾張松平家に仕え弓術を教えました。竹林流二代目を継承した石堂竹林貞次も弓の達人であり、尾張徳川家の御弓奉行となり、多数の家臣を育成しました。二代目没後、正統竹林派(石堂家)、尾州竹林派、紀州竹林派に分かれました。紀州竹林派は貞次の弟子が紀州徳川家に伝えたものですが、吉見順正のように紀州から尾張に留学して印可を授かった人物もいました。よって、射法は全く同じですが、京都の三十三間堂の通し矢では、ともに譲らず競い合ったことは有名な故実です。

三十三間堂の通し矢は、多数の藩と流派の名誉を懸けて、一昼夜でお堂の軒下(高さ5.5m)縁側(長さ120m)をかすらずに何本通すかと云う極めて困難で過酷な競い合いでした。推定40キロ以上の弓を用い、長さの短い差し弓、差し矢(遠的矢)が開発されました。記録は浅岡平兵衛(尾州)の51本から、次々と記録が塗り替えられ、射法訓の著者の吉見順正(紀州)が6,343本、星野勘左衛門(尾州)が18時間で10,000本中の8,000本を通し、ついに吉見順正の弟子である和佐大八郎(紀州)が24時間で13,000本中の8,133本を通して、不滅の大記録を打ち立てました。

・この通し矢では、手洗い、食事、休憩、仮眠時間を除くと、一本の行射は平均約5秒間隔で行う速射(矢早)でしたが、決して早気ではなくコントロールされていなければ、通らなかったようです。またこの頃、強弓で多数射るために、現代の堅帽子のユガケ、および四つガケが考案されました。

3)近代、現代の弓
・明治になって、尾州竹林流星野派から分れた江戸派の道統を継承した本多利実は、弓術の近代化を唱え、体育的徳育の観点から発展させた偉人です。先生は東大を初め多くの学校の弓術教授を務め、阿波研造など多数の人材を育成し、これらの人材が後に武徳会や弓道連盟の重鎮となりました。射法では尾州竹林の斜面打ち起こしを正面に変更し、小笠原流を参考にして体配を取り入れ、先生の没後、本多流と呼ばれました。

・明治末頃に大日本武徳会が結成され、剣道、柔道とともに弓術を弓道に改め、これまで、中世以来受け継がれてきた各流派を統一する弓道組織が成立しました。しかし、流派毎にばらばらであった射法、射技、体配などの統一が図られましたが、相当困難であったようです。

・戦後の数年間、武道はGHQの政策によって禁止されましたが、その徳育が見直され、新たに各流派を統一する組織として、昭和24年に全日本弓道連盟が設立し、初代会長には宇野要三郎範士(紀州竹林流)が就任しました。その後、連盟は大きく発展し、現在に至っています。昭和28年に弓道教本第一巻(射法編)、その後、第二巻〜第四巻(射技編)が出版されました。ここに、各流派のしきたりを越えて、射法・射技・射礼・体配などが統一され、運営されるようになりました。

コメント

一宮市在住の方

 年末に、魚住一郎先生ご逝去のご連絡を頂き有難うございます。突然の悲報を聞いて、驚き悲しんでします。私がこうして弓道四方山話を書いてこられたのも、魚住先生の優しい見守りがあったからこそと思っています。 学生時代はお父さんの魚住文衛先生にお教え頂き、大先生亡きあとは一郎先生にお教え頂けたのは幸せでした。 愛知県弓道連盟60周年記念誌に、このHPで書いている竹林坊の肖像画の写真を巻頭に掲載して頂いたことは光栄でした。 また、このHPの特集記事「星野勘左衛門の経歴の謎」においても、先生から頂いた貴重な資料により、これまでの定説を覆すような事実が明らかになったのです。 改めて、先生のご冥福を祈ります。
櫻井孝 | 2016/01/04 14:29
魚住いちろう先生が22日の朝、
亡くなりました。きょう、道場に行ったら、先生方みな、おいでにならず、
黒板にお知らせが、書いてありました。お知らせいたします。
一宮市に住んでいます | 2015/12/22 22:12
くもり様
コメントを有難うございました。
櫻井孝 | 2015/10/07 20:34
すごくわかりやすくて、とても良い概要だと思いました。
くもり | 2015/10/03 09:55

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