7-26 五重十文字より始めよ
射技の基本が五重十文字にあることは誰もが知っていますが、これを正しく理解して実行するは難しいものです。私も悪癖からの脱却の道標として常に意識したいと考えています。今回はこれまでのものから五重十文字をキーワードとして編集してみます。
1.「中学集」の冒頭
竹林流に伝わる「中学集」という奥義書に「五重十文字より始めよ」とある。
七道の曲尺のことは、五重十文字より始めて万事の曲尺なり。
五重十文字とは、弓と矢と、懸けの親指と弦と、弓と手の内と、胴の骨と肩の骨と、首の骨と矢との五つの十文字であり、いずれも直角(曲尺)の十文字である。
2.五重十文字は射法の順序で覚える
五重十文字とは判ったつもりでも、「体の縦横十文字」と「弓矢の十文字」との二つ以外はその重複のようで紛らわしいが、これらは守るべき射法の基準であり、射の進行にしたがって確かめてゆけば、極めて単純に覚えられる。
また、それらを最後まで保持するように心がけて行うのが総体の十文字である。
1)矢番えにおいて
「弓と矢の十文字」とは矢を弓に直角に番えよと云うことであり、これを「矢番え十文字」とも云う。
2)取り掛けにおいて
「親指の弦枕を弦に直角(一文字)に掛けよ」であり、「取り掛け十文字」とも云う。
3)手の内において
「押手は弓に直角に当てよ」であり、「手の内十文字」、「骨法陸」とも云い、中押しの形である。
4)引き分けにおいて
「胴の骨と肩の骨を直角に保て」であり、「縦横十文字」、「総体の十文字」とも云い、あるいは足踏み、腰、肩の「三重十文字」である。
5)会において
「首筋(頭もち)と矢を直角にせよ」であり、「物見の十文字」とも云う。
3.五重十文字の過不及(過ぎたるもの及ばざるもの)
1)弓と矢の十文字
「弓と矢の十文字」において、弓に直角というのは二通りの解釈が考えられる。
一つは弓全体に直角と考えて末弭と本弭を結んだ線、すなわち「弦に直角に番える」もの。他方は弓把の位置における「弓幹に直角とする」ものである。弓把は若干傾斜しているので、これに直角とすると弦に対して若干高くなり矢は水流れとなる。
力学的に考えれば、離れて矢がまさに弓把まで戻った瞬間に矢が飛び出してゆくので、矢はこのとき弦に直角でないと真っ直ぐには飛ばないことは自明である。しかし、この時矢は僅か数mm浮き上がるので、弦に直角より筈1つ分程度高く番えるのが適正と考えられる。したがって、筈一つ分を高くして弦に直角とするのと、弓幹に直角とするのは結局ほぼ同程度の高さとなるので、正しい理解があれば問題はない。
古書に「矢番えに上下の口伝」があり、矢筈を上に番えると下に飛び、下に番えると上に飛ぶ。狙いというものは微妙であり、動かしにくいので、これを利用して微調整できるということが昔から伝えられている。
しかし、その調整はせいぜい筈1個程度の範囲内に収めるべきであり、大きく動かし過ぎると矢飛びが乱れる。これを戒めて適正に保つのが「弓と矢の十文字」である。
矢番えにおいて弦を鉛直にして目の高さで番え、目通りに捧げて立つのもこのためであろう。このように、矢を番える高さには慎重でなければならない。
さらに打ち起し、大三、引き分け、会、離れに至るまで、弓は常に鉛直を保ち、矢は常に水平を保つようにするのが(弱い弓ではやや上を向くが)総体の十文字であり、常に意識したい。このとき矢番えの十文字が正しければ、矢が水平のとき連動して弓(上下の弭)は鉛直となり、逆も成り立つので、どちらか一方を意識すれば良いことになる。
2)懸け(弓懸け、弽、ユガケ)と弦の十文字
星野勘左衛門によれば、「懸けを結ぶに弦を捻るということ、これに過不及あり。過不及ともに了見(りょうけん)の違うところ、よく考えて知るべし。親指の腹に弦を一文字に掛け、その親指を中指、人差し指にて結んでみるべし。このとき弦を捻る度合いについての過不及は、骨相に引き当てて考えて知るべし。人差し指の付け根の横腹の中央に弦の当たるところがある。不及のときは弦が当たらず、捻り過ぎるは人差し指の腹が痛む。これが過不及である。捻り過ぎたるときは弦が曲がり、曲がった弦から出る矢は真っ直ぐになるはずがない。弦が不直(ふちょく)であれば、矢の出るところもまた不直となる。矢が曲げられて暴れるものである。正直(ただしく真っ直ぐ)ではない。掛けの手の裏(手の内側)の見えるのを嫌うは捻り過ぎたるゆえである。また一向に捻らぬのを手斧掛け(平付け)といい、これも嫌う。捻りの過不足はひじの骨法のはずれるためである、試して知るべし。」
竹林流では取り掛けにおいて、矢番えの約10cm程度下の位置で弦に直角に親指を軽く掛け、刷り上げて人差し指の腹が矢に接するところで中指にて親指の頭を結ぶ、これを受け掛けと云う。この方法は懸け結びの微妙な感じが出せるのである。
懸け使いのポイントとして、矢筈を親指の付け根の深いところに挟むときは、人差し指が邪魔をして、親指が下を向き、これを捻ると外を向くので好ましくない。
また、親指の頭を中指と人差し指の2本で抑えるときも、矢筈に障るので好ましくない。これは矢口の開き、筈こぼれの原因ともなる。
すなわち、取り掛けで指を結ぶとき、親指を弦に直角に当てることを優先しなければならない。これが半捻半搦(はんねんはんじゃく)の心であり、「掛けの親指と弦の十文字」が基準であるといえる。
ただし、四つ懸けでは弦枕が大筋違いといって親指に斜めに取り付けられて弦と直角にならないので、注意を要する。
3)弓と押手の十文字
押手の角見を効かせるのは親指の付け根を働かせることであるが、このとき手首を捻り入れてしまうと効かない押手となるので、やや控えめにするのがよい。しかし控え過ぎてしまうと押せなくなる。これが押手の出入りの過不足である。
また、捻りを効かせようとして強く握り過ぎると鈍い押手となり、緩すぎると滑って効かない。これは握る力の過不足である。
弓の力は下のほうが強いので、やや押さえ込む働きが必要である。そこで上筋を効かせ過ぎると矢は失速するし、逆に下筋を働かせ過ぎると弓が跳ねて暴れる。この働かせ方にも過不足があり、過ぎたるものは及ばざるごとしとなる。
押手手首の脈所は剛弱所と呼ばれ微妙なところであり、上に押し過ぎると下に弱り、前に押し過ぎると後ろに弱る。ここを注意深く中央に押しかけるのを中央の手内という。
この剛弱所の働かせ方は弓に直角となるのが「弓と手内の十文字」の基準である。ただし弓は上下に傾斜しているので、厳密な90度ではなく、概ね直角と考えたい。
4)縦横十文字
射法においては足踏み、胴造りが基本であり、常に縦横十文字となるように教えられるが、強く真っ直ぐに効かそうとすると、かえって体の縦横十文字が狂い易い。
押手を強く働かせようとして前腕から両肩を真っ直ぐ(一直線)にすると、真っ直ぐに見えるが実は両肩は矢筋と平行ではなくなり、両肩の線が右に捩れる形となる。
逆に押手の肩を控え過ぎて馬手肩で受けてしまうと、両肩の線が左に捩れて小さく縮こまった射になる。
これらの肩の捩れは足踏みと腰と両肩の三重十文字の崩れとも云える。
「矢の線は頬の位置にありますので、両肩の中心線とは13cmくらい離れた平行線」であるが、「押手の腕と両肩を一直線にすること」が正しいと考え違いしているのである。
胴造りは、座禅のようにどっしりと(大日の曲尺)、袴の腰板がぴたっとくっつくように(袴腰の曲尺)、馬の鞍の上に載るようにまっすぐに、気高くゆったりとした(真の鞍の曲尺)中央の胴造りを基本とする。
中央の胴とは、掛かる胴でも退き胴でも伏す胴でも照る胴でもない。左右前後に偏らず、中央にただ真っ直ぐに立つものである。
5)矢と首筋の十文字
首筋と矢との十文字は頭持ちを鉛直にし、物見を真っ直ぐにすることである。
物見が過ぎて弊害になる人は少ないが、まれに物見が向き過ぎると肩が窮屈になり、左肩が抜け右肩が出ることがある。いわゆる担ぎ肩といわれ、小さく働きのない射になりやすい。物見を向けるとき左肩を物見と同じ方向に逃がしてしまうと、肩が捩れるので、左肩は物見に引き寄せるようにすると、物見も肩も締まる形となる。
逆に、物見が甘い射手は非常に多く頭持ちが緩んで上下左右に傾き、締りのない射となり、狙いにも影響する。物見が不足すると、矢筋と両肩の線が離れて偏芯が大きくなる。また、引く意識が強くなり右に開いて体が捩れるので、押せば押すほどさらに右が勝って、三重十文字が崩れ押手が効かなくなり、手を打ち、頬を打つようになる。
これも胴造りと同じく中央であり、懸かる面、退く面、伏す面、照る面など左右前後に傾くのは不可である。このためには首筋は表側だけでなく裏側の首筋を伸ばす意識を持つと縦に伸びるイメージができる。
櫻井 孝 | 2008/01/15 火 20:30 | comments (0)
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