11-9 私説・日本弓道の歴史
日本弓道の発達は大きく分けて、次の4段階に分類できると思います。
1. 狩猟の手段として発達
2. 戦争の武器としての発展
3. 武士道における心身の修行として確立
4. 体育、徳育としての発達
1.狩猟の手段としての発達
これは有史以前の生活手段としての道具であり、石器時代には長野県の和田峠で産出される黒曜石の鏃が日本全国で発見されていることから、優れた道具は物々交換の時代でも交換レートの高いものであったと思われる。長弓については南洋の海洋民族に共通しているとの意見もあるが、現代でも簡単には往来できないのに、南洋の古代人がカヌーに乗って弓矢を伝えたとは考え難い。世界の民族に共通する自然発生的なものと考えられる。
2.戦争の武器として
日本のみならず世界中の弓はいずれも戦争の武器として発達したことは自明である。
ここで日本の歴史を大まかに分類すると、全国が分裂して群雄割拠の時代→武力統一による強大な国家の成立→平和国家に慣れて軟弱化するとまた乱世となる。これが、古代、鎌倉時代、安土桃山〜江戸時代、明治維新と4回ほど繰り返えされたものといえる。乱世、およびその統一時期には武器の性能研究が盛んになって発達し、平和の時代には衰退する傾向があったと思われる。
3世紀の魏史倭人伝(三国志の時代)には、日本の弓について「兵は木弓を用い、木弓は上が長く下は短く、竹の矢、鉄製あるいは骨製の鏃を用いる」と記されている。当時はちょうど卑弥呼の率いる邪馬台国(やまとと読める)が日本を統一した時期であり、また日本を東夷と云い、東方の大弓を持つ人と呼んでいたことからも、すでに現代と同じように長弓を用い中央よりも下のほうを握る射法であったことが判る。
その後、奈良、平安時代の大和朝廷は平和の時代であり、文学や詩歌が教養として尊ばれ、武術は野蛮なものとして衰退したと考えられる。この時代の弓術は日本流(やまとりゅう)と呼ばれ、実戦よりも儀礼的なものが主体であったと思われる。
平安末期の源平時代から鎌倉時代にかけては、武家の争い(源平の戦い)などから武術としては最高の発達を遂げた時代であろうと思われる。源の為朝が鉄弓(鉄芯入り)をひいて船を沈没させた伝説、あるいは平家物語で那須与一が波打ち際から船上の扇の的を射抜いた話は有名である。
鎌倉時代の名刀、甲冑は後の時代のものに比べて最高品であったことを考えれば、弓も鎌倉時代のものが、最高品質であったのではないかと考えられる。この鎌倉弓術の射法についてはよく判らないが、精神修養的なものでなく実践的なものであったと思われる。現代では小笠原流が鎌倉源氏からの古い名家としてその伝統を伝承しているので、その弓術は流鏑馬、百手式、草鹿子、犬追物などのように、近的道場での鍛錬よりも、むしろ戦場や狩場での射法やその実践練習としての面影が強く残されている。(これらについては射法ドットコム「射法は寝て待て」にその一部を伺い知ることができます)
3.武士道の修養としての発達
皮肉なことに、弓道の基礎は戦国時代に鉄砲が伝来して、武器としては時代遅れになりつつある頃に、日置弾正政次、日置弥左衛門が日置流弓術書を著し、さらに江戸時代の創世期に竹林坊如成などが弓道の射技理論を発展させ、日置流(吉田流)各派など現代に残る各流派の弓道が確立したものであった。
江戸時代は太平の時代を維持するため、鉄砲などの製造、開発、練習を厳しく禁じたとともに、実践的な兵器の発展は途絶えたが、弓道は武士道の修行として、実践武道よりも精神的な側面を深く追求する方向の徳育として発展したものと思われる。
たとえば、15間(28m)の近的道場における稽古は、戦場での実戦武道としては近すぎて、悠々と弓構えをしている間に敵に踏み込まれて勝負にはならないはずであるが、自己を省みる修養の道場として、確立されたものと考えられる。
4.体育、徳育としての発達
明治になって西洋流の合理主義の時代となり、弓道は武器としてはもはや全く役に立たないものとみなされたが、一高、東大など多数の学校で弓術部教授を歴任された本多利実先生(本多流の祖)が新時代の学校教育の一環として剣道、柔道などとともに、健全な体育と徳育を育成できる武道教育としてその普及に尽力された。また先生に育成された多くの高名な弟子達が全国に指導者として広がり、現在の日本弓道連盟を確立したといえる。
櫻井 孝 | 2006/06/06 火 00:00 | comments (0)
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