11-7 観念的弓道にあらず、合理的弓道をめざす
私は先に真理があってその真理に近づければ、全てができるというような観念論的弓道は受け入れられません。
矢を素直に飛ばすにはどうすべきか、弓の働きと力の働かせ方はどうあるべきか、何故こうするのか、などを自分で考えて求める姿勢が好きです。
千葉県弓道連盟の吉原会長は良くこの言葉をいわれています。もともと弓道は合理的にできているので、理にかなって行えば中るようにできているものです。
竹林流は流祖が僧籍であるので、相当に宗教的であるが、もともと仏教はキリスト教のように観念論的ではなく、自分で森羅万象の仕組み、生命の輪廻を理解し、覚ることを求める宗教です。
山にこもって、世間にもまれて、座禅によって瞑想して、森羅万象と生死の輪廻を自分で理解するのが仏教の世界です。
したがって、竹林は昔流ながら、結構理屈を考える射法であるといえます。
射法訓の前文で言っているように、弓道の修練というものは、すぐに動揺して安定しない心と身をもって、自在の活力を有する弓を用いて、静止不動の的を射貫くものであるので、心を正しくきちっとして、身(射技)を正しくして、気持ちを充実させ、正しい射法を学び、修行に邁進する一途あるだけであると述べています。
さらに、正しい射法とはどうあるべきかを解いています。
これが、精神と理論と技術の三位一体を含めた合理的弓道論と思います。即ち、射法の理屈を理解したうえで、少しでも会得できるように努力するのが、合理的弓道理論であると信ずるものです。
櫻井 孝 | 2002/08/08 木 08:08 | comments (0)
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