home >  弓道四方山話 > 巻の拾壱 「流水の巻」

11-4 三十三間堂の通し矢

三十三間堂の通し矢は、鉄砲の出現で武器として意味を失った弓道が、武士道の名誉を賭けて魂と肉体の限界を競うことで、弓道史の中で燦然と光り輝くイベントでした。三十三間堂は京都の国宝のお堂で、正面には階段などがあり入り組んでいますが、お堂の裏側は縁側が回廊となっており、障害物なく長さ66間の一直線になっています。

三十三間堂の長さが66間と言うのは変ですが、お堂は大きい柱が2間間隔で並んでおり、これを「一ま」と言い、「33ま」すなわち66間となります。弓を引くときは縁側に腰懸けて引き、控えの距離などから120m程度であったと考えられます。

通し矢はその名のとおり、縁側で引いた矢が軒に当たらず、縁にすらず縁側の幅で通り抜けた本数を1昼夜(24時間で)競うものです。120mを軒に当てないで通すためには30キロくらいの強弓が必要になります。

通し矢は個人の名誉というより、所属している藩の名誉のためもあり、初期の頃の記録は数百本程度でしたが、紀州竹林の吉見台右衛門が6千本通して記録をたて、尾州竹林流の星野勘左衛門が8千本を通す大記録を打ち立てました。まさにこれは日本新記録でした。

しかし記録は破られるもので、紀州竹林流の和佐大八郎が8133本の新記録を打ち立て、これが最高記録となりました。

24時間で1万本の矢を引くのは平均9秒となりますが、トイレ休憩や栄養補給も必要ですし、疲労もたまりますので、平均6秒くらいで矢番えから離れまでを行うという速射射法でした。矢番え、とり懸け、打ち起し、引き分け、会、離れ、が各1秒位でしょうか。

このように速射では在りましたが、早気では在りません、早いながらきちっとコントロールしないと矢が通りません。現代の弓引きでは、殆ど引けないような強弓を数百本でなく、1万本引くのですから、まさに怪物の仕業といえるでしょう。

また堂射は弓具の発展をもたらしました。すなわち、堅帽子懸けの普及、短めの差し弓、差し矢(遠矢)などであり、懸けはそれまでのグローブのような懸けから、現代の堅懸けが使われるようになりました。

勝手は肩に肩パッドをつけて位置を決め、押手には押手懸けを使用し、くすねを塗りつけて、離れで弓を握りこんで弓返りしないように打ち切りとしていました。

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