home >  弓道四方山話 > 巻の壱 「天の巻」

1-20 弓矢を取ること審固なりの審固とは

礼記射義に「弓矢を取ること審固なり」という言葉がありますが、なかなか意味深長で難しい言葉です。相変わらず独断専行で我流の解釈をしてみたいと思います。

「審」という字は、審査、審判、審理、審議などがあり、つまびらかにするとか、詳しく調べるという意味に用いられており、「固」はかためる、確かにするという意味です。すなわち、「審固なり」とは射法のすべてにきっちりと確かめながら行うことと解釈できます。したがって弓道における自分の考え方ができないと、審固にするのは難しいことになります。

ところが、この礼記という書物は孔子がまとめたものであり、中国射法の話であり、日本の弓道の射法ではないことは明らかです。

日本の現代弓道は射法を「八節」に分解して教えていますが、江戸時代では離れと残身を合わせて「七道」として教えていました。また、射法を五つ(目付け、引き込み、会、離れ、見込み)に分類して、「五味、五身」とも呼んでいました。

古代の中国の射法については「射学正宗」という書物があり、中国射法を詳しく解説しています。これによれば、中国の射法は「審法、こう法、均法、軽法、注法」の五つであり、五味とぴたり対応しています。

すなわち中国射法の五法の最初が「審法を論ず」であり、「審」は「ねらい」と読みます。「矢を放つにはまず意が第一であり、意は心にあって目に発するものである。だから審(ねらい)を第一とする。審は目をもって主となす。だから射んとするならば、まず目をもって審定し、而して後に肩肘の力によって発する。」

審は単純には「狙い」のことと言えますが、もう少し広い意味では五味で言う「目付け」に相当します。「目付け」では単なる狙いではなく、目当て物(的)に対峙する足踏み、胴造り、弓構えが真っ直ぐに的を向き、矢筋、矢どおりをイメージし、遠近高低を定めることを含めています。

話は変わりますが、中級あるいはベテランの方でも会において狙いがなかなかつかないのを見かけることがあります。そのことをお話しすると、「引き分けにおいてまず肩、あるいは肘を収めようとするとき、なぜか狙いが外れてしまう」という返事が返ってくることが多いです。このような場合、私はそれ以上云わないことにしています。

しかし、自分はその考えは本末が逆であると考えています。すなわち矢と狙いはいつでも的芯に向いているようにするべきであり、その前提の上で弓に体をはめ込むとか肘を十分に回すことが必要であると思っています。だから体をはめ込んでから狙いをつけるのではなく、逆であると思います。

中国射法の「審固」とはまず目で的をしっかりと見据えて、狙いを固め、矢通りを掴むことにあり、而して後に体を使って均等に引き分けることを教えていると考えることができます。すなわち正しい狙い、および目付け(足踏み、胴造り、弓構え)が、まず優先すべき事項であると云いたいのです。

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