手袋考6「強弓」

2016/10/06 木 22:04
峯 茂康



前稿で引用した黒須教授のBlogにも三十三間堂の通矢では「25s〜30sの強弓を引いた」とありましたが、何となく堂射はもっと強い弓だったのではないかと想像している人は多いのではないでしょうか。

かく言う私も「明治期ですら七分(弓の厚さが七分=21ミリ=30キロ超)は当たり前に弩いたものだ」と聞いていましたし、櫻井先輩の計算(弓道四方山話11-10)でも、120mの距離を高さ2.7mのライズで通すために必要な弓の強度は少なくとも41キロになるとのことなので、星野勘左衛門の弓が30キロ弱だったとにわかには信じられませんでした。

しかし、櫻井先輩の記事をよく読み直してみたら、この計算は近的用の弓具を使うという前提のようでした。それなら近的矢より3〜4割ほど軽い矢(堂矢は15グラム前後だったらしい)を使えば恐らく弓力41キロに満たなくても射通せたことでしょう。

星野勘左衛門の弓力については、大伴英邦著「尾張藩弓術竹林教典」に以下のような逸話が紹介されています。

名古屋叢書第七巻に、星野勘左ェ門茂則が八千本の通し矢をして洛中見物の途次ある弓打の方へ立ち寄っていた際 薩州の家士が来て色々とせんさくしている内に星野勘左ェ門と名札のついている弓を見、彼の武士それを手にしていうには、その名轟く尾州の星野なれば定めし剛弓かと思ったのにこのような弱弓を用ゆるとは何事かあろうと嘲って帰った。星野はこれを聞いてあざ笑して、其の弓に矢を番へて庭先へ射込んだ 矢は筈を残して地中深く没した。明日彼武士が来たらこれを見せよといって立ち去った。翌日武士再び来て主人より斯く斯くと話を聞いて驚嘆して昨日の豪語に恥じ入って興ざめた面持ちで帰ったと云うことである。

地中深く矢を射込んだ星野の技は見事ですが、それはさておき、当時七分に満たない弓は弱弓という認識だったことが分かります。つまり泰平の世とはいえ、もっと強い弓を弩いていた射手は珍しくなかったということです。とすると戦時の弓(軍弓)はどれほどだったのでしょうか。

源義経(幼名牛若丸)には「弓流し」の物語があります。屋島の戦いで平家軍は船の舳先に竿を立て、その先の扇を射てみよと源氏軍を挑発しました。扇の的を那須与一が射落とすと敵味方共に感激し、船の舳先で舞う平家の武士まで現れたので、義経は与一に命じてその武士も射させました。平家軍はこれに腹を立てて攻め寄せたものの、源氏軍の馬に蹴散らされて船で沖へ逃げ出しました。

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