手袋考5「銅型」

2016/10/06 木 22:04
峯 茂康



戦場で武士は弓を引くばかりではなく刀や鑓、馬など他の武具を扱わなければなりませんでした。したがってユガケは親指の弦が当たる部分を若干厚くしたていどの手袋様のものが使われていたのです。
ユガケの改良や工夫が盛んに行われたのは江戸時代、三十三間堂の通矢が行われるようになってからです。通矢は一昼夜に一万本もの矢を放ち、しかも25s〜30sの強弓を引いたので、弦を引く親指が非常に痛みました。そこで親指を保護し痛みを和らげ、楽に弓を引けるようなユガケが必要だったのです。
親指を皮で固める工夫をしたのは、竹林派二代の石堂竹林貞次だと言われています。また、帽子に堂型のいれたのは江戸初期に通矢に6回も天下一になった大蔵派の祖、吉田大内蔵茂氏(金沢藩士)の発明で、さらに角を入れた工夫は、紀州竹林派の吉見台右衛門経武だといわれています。
また、『尾州竹林流文射の巻』「的ユガケの説」や『名古屋双書』八巻には、角入れの工夫をしたのは、尾州竹林派の長屋六左衛門忠重(天下一3回)だと記述されています。
寛永14年頃(1637)から通矢総数が上昇していることからみてユガケの改良が行われたのは寛永12〜13年頃だと考えられます。
大蔵派の伝には、その始祖吉田大蔵(慶長年間の人1596〜)が堂前を射るのに疲労を少なくするため、薬指を付け増し、四ガケにしたとあります。
藩の名誉のため命をかけた通矢で一本でも多くの矢を通すために様々な工夫がなされたのです。堅帽子や、四つ指、大控えなど現在のユガケにみられる特徴はみなこの頃に出来上ったのです。
現在ではほとんどの人が15間小的前にて角入りの硬堅めのユガケを使用しています。しかし本来、硬帽子のユガケは通矢のために考案されたもので、小的前で使用するものではありません。

堅帽子ユガケについての歴史的資料はこれでほぼ網羅していると思いますが、いつ頃から的前で堅帽子ユガケが使われるようになったのか、そしてどうしてそれが一般化したのかという記述がないのは、確たる資料がなく不明だからでしょう。私も弓術関係の文献を手にする度に的前用堅帽子の手がかりがないかと期待するのですが、何も見つけることが出来ずモヤモヤするばかりです。

モヤモヤすると言えば、黒須教授の記述にある「堂型」とは何なのかも気になります。

通常「堂形」といえば堂射稽古用の「折掛堂形」と呼ばれる仮設三十三間堂のことです。折掛は射距離中間地点で軒の高さに張った縄で、堂形は射場(射位)と折掛と矢先(堂の向こう端)の三ヶ所に築いた屋根や塀のことです。本田利實著「弓道講義」によればこの三ヶ所を「閣門」と呼んでいたようです。

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