7-20 唯矢束、わがままな矢束

2004/02/17 火 00:00
櫻井 孝



ところが、矢束の解釈には竹林流の同じ奥義書(江戸時代)の中にも正反対の解釈がなされ、異なった意見のまま伝えられてきました。この原因は言葉の解釈を直接的に表現しないで、意味深長に、玉虫色、反語的に表現する日本人特有の癖のせいではないでしょうか。

【伝書1】「引かぬ矢束」を適正とする解釈

1. 「引く矢束」は短いぞ、骨法に至らぬ矢束なり、もっと引くべき矢束である。

2. 「引かぬ矢束」は十分に引いて骨法にはまり、これ以上引くべきところのない矢束である。

3. 「ただ矢束」は語呂合わせに示したもので、ただ漫然として意味のない矢束である。

【伝書2】「ただ矢束」を適正とする解釈


尾州竹林流の伝書の中で星野勘左衛門は以下の解説しています。

1. 「引く矢束」は五部の詰めからみて短いぞ、もっと引くべき矢束。(この解釈は同じ)

2. 「引かぬ矢束」は骨相筋道(骨法)にはずれて引き過ぎたる矢束なり。引きすぎて緩む矢束である。(解釈が全く異なる)

3. 「ただ矢束」は骨法に合致し、我儘なる矢束である。引き足りなくも、引き過ぎでもなく丁度いい矢束である。わがままなるとは我が体の骨格のままと言うことで、身長の半分とか左手を伸ばして喉から指先までの寸法のことである。(解釈が全く異なる)

また、「引く矢束」について、初心のうちは業を大きくするため引けるだけ一杯に引かせて射させるものという解釈もあり、「引かぬ矢束」は五部の詰めいまだ至らざるゆえ縮みて至らないものとの解釈もあります。

単純な解釈では過ぎたるもの及ばざる如しであり、「中庸」が良いとなるべきところが、「ただ」という重みの無い軽蔑語のため、否定されてしまったと思われます。竹林流では「中庸」を重んじます。「大円覚」、「円相」、「中央」、「引き分け」などすべて片方に偏らずに均等に行なうのが基本です。その点から、引き足りないのも過ぎるのもダメであり、丁度いいのが適正です。

また、「唯真っ直ぐに引き真っ直ぐに離す」、「唯伸びて緩まざる」というように、「唯」という言葉は軽蔑語ではなく、その人の骨格のまま自然に行なうという意味であり、それを骨相筋道に従うといいます。という訳で私は「真っ直ぐに引いて、唯矢束で引き納め、五部の詰めを胸で割って4箇所が同時に離れる射を目指したい」と思います。

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