12-22 「射法本紀」概略

2019/04/01 月 12:30
櫻井 孝



弓術の第三節は分術であり、分術とは弓を引き収めてより矢を発するまでを云う。これは両方の拳・腕が左右に分かれるので分術という。

1)会を持つには、無為にて行うべし、故意にて行うべからず。持つとは、保つ、抱える、会とも云う。「無為」とは解釈が非常に難しいが、「何もしない、無駄な働きをしない、ことさらに手作りしない」と云うことである。すなわち、会を持つには、押し引きともに素直に真っ直ぐに働かし、無駄な働きをしないことが肝心であり、故意に力を働かせるべきではない。初心者が「何もしない」のは無為と似ているが、それは空であり、空は無為ではない。また、無為を「無念無想」と混同する人もいるが、それも間違いである。無念無想は念ぜず想わずと云い、心気の働きをしないものである。無為は心気の働きがあって、これを外部に現さないものである。全くの無念無想では弓は引けぬものである。

2)切るには、自期を以って離れるべし、我が意を以って放すべからず。切は体力により離れることを云う。自期を以ってとは、自然に来るべき時期に至って、無為のままに離れるべしと云うことである。我が意を以ってせずとは、まだ時期に至らぬのに「よし放して中てよう」と心を動かして故意に放すことを云う。

3)発するには、調子を以ってし、手作るを以ってすべからず。発は心気により離れることを云う。心気より離れるには自然の調子なるものがあり、この調子を違えずに射ることを、発するに「調子を以ってし」と云い、この調子を外れて、手先にて放すことを「手作るを以ってせず」と云ったものである。

以って精(くわしき)に至り、極(きわむ)るに至り、而して態(たい)成る。

以上の弓術を修練し、精緻に至り、極に至り、射形成就する所を態の完成と云う。修行の段階を云うものでこれにより定まる。兎に角、得難きは修行にあるなり。

現代の弓道では、調子をもって離れるのは「調子中り」と云って嫌う傾向があります。それは安易で浅はかであり、精神性を感じられない言葉からであろうと思います。しかし、振り返ってみれば、調子外れの射は居着き、しがみ、膠着して、緩みとなり、あるいはビクを生じたりして勢いを失い易いものです。したがって、業は規矩に従って行うが、音楽にリズムやテンポがあるように、自然に伸びる調子を保って軽く勢いよく離れるのは肝要であると思います。

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