12-22 「射法本紀」概略

2019/04/01 月 12:30
櫻井 孝



▼大和の日置の継承
日置弾正正次が近江国蒲生郡雪野山の川守城の吉田重賢に相伝し、ここから吉田一族は弓術師家として隆盛を極め、日置・吉田流と云われ、出雲派、印西派、雪荷派など各派の遺跡もこの竜王町の周辺に散在しています。

▼三島明神
伊賀日置の弓術書が奉納された三島明神は静岡の三島大社ではなく、竜王町の須恵と弓削の近在にある左右神社が昔は三島明神と呼ばれたと云う文献があります。

▼竹林坊が務めたお寺
確証はありませんが、日置・吉田流の本拠地である川守城のすぐ近くに阿育王山・石塔寺(アショーカ王山・いしどう寺)という古刹があり、聖徳太子がインドのアショーカ王を奉って建立したと云われています。竹林坊は石堂寺の住職となり吉田家の祈願僧を務めていたという記述があり、このことから竹林坊が北村から石堂に改姓したこと、およびこの書が聖徳太子ゆかりの書と云われること、さらに竹林流伝書の「灌頂の巻」に「聖徳太子、弓道を修学し給いて、弓力達して後、弓に鉄の筋金を入れて用い給う(筋金入りの由来)」と記述していることなどは石塔寺に関連して頷ける事柄です。

本多利実先生は尾州竹林派の星野勘左衛門から別れた同流江戸派の道統を継承したので、引き継いだ弓術書からこの書を見出し、詳しく解説したものと思われます。

次に射法本紀の本文へ移ります。章や節等の項目番号は読者の便宜のため私が加えました。

image[射法本紀図解(大正12年)]

序章

上皇初代の時。魔障神、天の政を妨ぐ。皇天、弓矢を造り、これを射る。これ射術の始めなり。

上皇初代(神代の最初の天皇)の治世の頃、魔障神(ましょうじん)と呼ばれ朝廷に従わない輩が天皇の政治を妨げ反逆した。皇天(こうてん)は自ら弓矢を造らせ、これを用いて天下を平定し給うた。これが射術(しゃじゅつ)の始めである。この頃の射法を日本(やまと)流、あるいは尊(たける)流と云う。

我国の太古の弓は魏志倭人伝に記述があります。「兵用矛盾木弓、木弓短下長上、竹箭、或鉄鏃或骨鏃」とあり、3世紀の頃から上が長い長弓を使用していたことが判ります。また、日本流は古代の流派で、大和流は江戸中期の森川香山が始めた流派です。

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