12-22 「射法本紀」概略

2019/04/01 月 12:30
櫻井 孝


竹林派的に補足すれば、射という字は「己が身の寸法を基準に、形を定め、骨相筋道に射る義なり」と解釈できます。続いて本多先生は由緒について以下のように解説しています。

この書が聖徳太子の御撰によると云われているが、古より言い伝えられたと雖も、それはすこぶる疑わしく、その著者名も書かれた年号も記載がない。しかし、これが後世の人物による偽書であるとしても、その文章の綾といい、述べる事項の秩序的な内容はその一字一句が現代の弓を学ぶ者にも規範となる精緻な記述であることを考えれば、その著者は必ずや文武両道に練達した士であったことは明白である。また、この書が今日に至って貴重とされるのは、その著者が誰であるかではなく、その内容が現代の我々弓道人にとって重要視されることにある。とにかく、この書は他の弓術書と共に彼の三島明神の神庫に秘蔵(奉納)されていたものであり、日置流竹林派の始祖竹林坊如成が請け出して世の中に伝えたものである。これは我が国の弓術書として最古のものであり、中国の弓術書である「射学正宗」をも凌ぐ良書である。

ここで「他の弓術書」とあるのは伊賀の日置弥左衛門から代々伝えられた書だと考えられます。以下に日置流の伝承と時代的背景について補足しておきます。

▼日置流の伝承
竹林流(派)の伝書(四巻の書)の註釈に「日置に二流あり、伊賀の日置弥左衛門範次(1394〜1427年)と大和の日置弾正正次(生没年不詳)の流れなり、当流は伊賀の日置なり」とあります。二人の関係は同一人物が移り住んだ、あるいは兄弟とする説もある伝説上の人物ですが、日置を名乗る人物はこの二人だけです。

▼伊賀日置の継承
日置弥左衛門(伊賀国)が1418年に安松左近丞吉次(伊賀国)に、安松は1505年に弓削甚左衛門繁次(近江国)に伝授しましたが、弓削繁次には相伝すべき者がいなかったので、弓術書を悉く三島明神に奉納してその継承は中断しました。後年、近江国蒲生郡須恵(現在は竜王町須恵)在住の北村(喜多村)竹林坊如成という僧侶が弓削氏(繁次の子孫か)から伊賀日置流弓術を学び、悉く習得し妙を得て、1551年に三島明神の日置流弓術書を請け出し伊賀日置を再興し、日置流竹林派と呼ばれました。

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