4-27 弓手の働きについて

2018/12/26 水 18:00
櫻井 孝



狙いを正確にというのは、「雪の目付」と云ってひらひら落ちてくる雪の一片を最後まで凝視する訓練をすると、大きく見えてくると云うことです。また、「一分三界」というのは、一分(3mm)という小さな寸法(矢摺り籐の一筋分に相当)を世界のように大きいものとみなし、その中の一点を見詰めるようにする訓練であり、ついには蚊の睫毛に住む微小な虫まで見えてくると云うことです。昔の射人は一寸極端ですが、それほど重視したのです。

しかし、狙いをどんなに正確にしても確実に的中するためには、自然な離れを身に付けねば得られないのです。現代では鋭い離れが推奨されるようですが、五カ所の詰め合いの後、伸び合って胸の中筋から割れて開く、四か所の離れが「四部(紫部)の離れ」です。これは弓手手の内と馬手の手の内、弓手の肩口と馬手の肩口との4カ所が同時に別れる伸びのある離れです。

軽い離れとは力を緩めて、優しく離そうとしてはいけません、そうすると緩み離れとなり、最悪の離れとなります。唯、何処までも伸びてその延長線に離れるのが良いのです。そのためには、急ぎ過ぎず、力み過ぎず、途中で引き過ぎることなく伸びて、カメラのシャッターを半押しで構えるように、フェザータッチでリリースするとき、電光石火に弾けて飛んでゆきます。

しかし、実際には自分でもなかなかできません。こんなイメージとしてできればいいなあという願望です。

註-1「狙いは弓手にあり、的中は離れにあり」の原文
この原文は尾州竹林流の五巻の書の第五巻「灌頂の巻」の終段にありました。本多流生弓会が出版した「尾州竹林派弓術書」の「本書」がそれです。
「分狙いは弓手にあり、中りは離れにあり」

「狙いは弓手にあり」と云うは、中学集の第十条、分限と云う段にあり。左(弓手)を大将と云い、狙う所の目中て(めあて:矢摺り籐の付け狙い)に差し載せて動かざるは、着己(ちゃこ:的が己に着く)の目中てに叶うべし。「中りは離れにあり」と云うは、例えばよく狙いたりといえども、離れ悪しくば、矢騒ぎて中るべからず(はずがない)。然れども、全く狙いは押手、中りは勝手と別々に思うべからず。中る所は弓手にあり、勝手にあり、左右整いたる所に中りあるべし。


註-2「本書、五巻の書」について
これは竹林坊如成(竹林流流祖)が著述した「日置一遍の射」を2代目石堂竹林貞次が五巻に分けて編纂し、註釈を加えて印可書としたものであり、本多流もこれを印可書としています。このうち一巻から四巻までが外伝として、修行の練達度に応じて与えられ、これを「四巻の書」と云います。「射法訓」の後段の「書に曰く」はこれです。第五巻は免許皆伝者にのみ与えられる内伝(秘伝)の書です。

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