2006/09/11 月 00:00
櫻井 孝
九 星野勘左衛門
星野勘左衛門、名は茂則、後浄林と号す。傳右衛門則等の第三子なり。その先は熱田大宮司季範より出ず。茂則臂力ありて、武技を善くし、長屋忠重に学びて尤も射術に長ず。
尾張侯光友の時、弓役となりて俸若干を賜う。
寛文二年五月二十八日京都蓮華王院に堂射をなし、総矢数一万二十五本、徹矢(通し矢)六千六百六十六本に達し、天下一となる。後五百石を賜いて、弓頭にあがる。
寛文八年五月紀州の士葛西園右衛門七千七十七本を徹して天下一となる。
茂則再び天下一たらんと欲し、翌年京師にいたる。
発する前、人に告げて曰く、この行い必ず八千矢を徹さんと。
五月朔(1日)、暮時(午後6時)より射て、二日の正午に至り、総矢数一万五百四十二本、徹矢(通し矢)八千本に満つ。
その射に臨むや態度は寛優そうそうとして余裕あり、黎明かがり火を撤するとき、熟睡して鋭を養う。観るものそのいたずらに時を移して、功を成さざらむことを憂う。
既にして茂則起きて射る。飛箭疾風の如く、一として中間に落るものなし、人みな驚嘆して、その精妙に感ぜざるなし。
茂則既に八千矢を徹し、揚言して曰く、余力尚射るべし、然れども吾いま多数を射らば、後来天下の諸士吾に凌駕するの難きを念いて、堂射ついに廃絶し、射術の衰微を来たさんと、すなわち射をおわり、八千と書して旗幟を作り、馬に騎して所司代町奉行等に詣りて謝辞を述べた。(後略)
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