11-11 竹林坊如成の終焉のなぞ

2006/08/22 火 00:00
櫻井 孝



尾州竹林流星野派第11代道統の故富田常正先生のライフワークである「尾州竹林流四巻の書註解」の付録「竹林流正統系譜」、および「尾張国竹林流繁盛記」の記述には

石堂家譜に曰く、石堂竹林坊如成は江州石堂村の産、北村某の子なり、末男なるにより幼年より山(比叡山)に登り(出家)し竹林坊に住す。山徒(山伏)もとより武芸を好み、かつその身士流なるにより(郷士の出)射芸を好み、その術に達す。たまたま浪人(安松なるべしとあるが、弓削であろう)来たりて僧徒(僧兵、山伏)を集め、射芸を教ゆことあり、如成もっとも器用たるにより、程なく奥義を極め印可を得たり。(略)ますます射芸をもって名を得たり。したがって学ぶもの日々多し。かつまた手跡(書道)を能くし蹴鞠に達す(名人のことか)。天正の末年(1592年)病みて卒す。

とあります。さらに註には

如成のことについてはこれで終わっている。如成が尾州の地に来たことには何の記事もない。しかも没年も終焉の土地も知ることができない。石堂家譜の最終の頁に小泉善九郎(尾州の家臣御弓役四代目の士で文化年中に没す)の調査報告のようなものが加筆されている。

とあります。

北村竹林坊如成 法名は左のとおり。元和二年丙辰年(1616年)十月十七日卒。弓照院大日師と号す。墓所不明。右のとおり相見え申し候あいだ伝えて申し上げ候 小泉善九郎  岡部七郎殿

富田先生は「如成の法名没年はこの記事以外に見たことがないから、直に信ずることはできないが、一応新しい発見として取り上げておく外はない。」と述べています。

また、富田先生の同繁盛記には、荒川良清氏の「竹林流覚書」からの引用として、竹林坊の出生、出家、弓の修行、還俗などのあとに、尾州の清洲にきて、弟子の安倍勘兵衛を通じて尾州松平忠吉侯に言上され、息子の林左衛門(貞次)を伴って250石、弓役を賜る事情を伝えています。

(中略)その後、竹林坊のことは比叡山に立ち帰りたるとも云い、伏見へ行きて病死とも云う。その終わる所は不分明なり。

とあります。

これまで尾州側の多くの資料からは竹林坊のその後の消息は不明でしたが、インターネットによって竹林院のホームページから偶然に竹林坊の消息を見つけたことは、流派マニアにとって大発見でした。

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