11-1 流派の系譜
11-2 流派の因果は巡る
11-3 竹林流の射法
11-4 三十三間堂の通し矢
11-5 古い考えと新しい考え
11-6 萬法一に帰す
11-7 観念的弓道にあらず、合理的弓道をめざす
11-8 吉野山で雪中弓道合宿
11-9 私説・日本弓道の歴史
11-10 続・三十三間堂の通し矢
11-11 竹林坊如成の終焉のなぞ 加筆訂正
11-12 続々・三十三間堂の通し矢 New!
11-1 流派の系譜
弓道の流派については弓道リンクの「弓道場」に詳しくのっていました。ここでは簡単に述べます。
古い時代の弓道は神道流、日本流(やまとりゅう)、逸見流があり、鎌倉時代に源氏の武田流、小笠原流がでました。小笠原家は足利将軍家、徳川将軍家の弓馬の指南役として、武術と礼法を教える文武両道の家柄であり、古い射法ながらとくに射礼の面から現代弓道においても指導的な役割を担っています。
室町時代に、日置弾正正次が確立した日置流(のちに吉田流とも言う)は射技射術理論の精緻さから江戸初期に隆盛を極め、印西派、道雪派、大蔵派、雪荷派などにわかれて発展し、現在も主要な流派であります。また、大和流(やまとりゅう)は江戸初期に森川香山が古来の日本流(やまとりゅう)を研究し、日置流各派、竹林流、小笠原流の長所欠点を探究して、大和流(やまとりゅう)を伝えました。
この日置流には二つの流れがあり、一つは日置弾正が伝えた大和の日置であり、もう一つは日置弾正の弟(と言われる)日置弥左衛門範次が伝えた伊賀の日置であり、尾州竹林はこの流れです。
日置弥左衛門は安松左近吉次に伝授、さらに弓削甚右衛門繁次に伝授されますが、繁次に後継者がいなかったので、その伝授の書は三島大明神に奉納されました。
その後近江の国須恵村出身の北村竹林坊如成という名手が現れ、伊賀日置の書を三島大明神から受け下し、ことごとく熟得し一遍の射と「四巻の書」を編纂しました。後に石堂竹林如成と言い、竹林流の祖であり、日置流竹林派とも呼ばれました。この流祖は竹林坊といい吉野山、高野山で修行をした僧侶であったので、当流の極意書は仏教的な思想で書かれています。(吉野の金峯山寺竹林院)
竹林坊如成は次男の貞次に与え、貞次は一遍の射を改訂し灌頂の巻を加えて、五巻の書としてまとめました。これが免許の伝書です。その後、竹林流は石堂竹林家の正統竹林流と、名古屋の尾州竹林流、和歌山の紀州竹林流に別れましたが、藩が異なるだけで、同じ伝書「四巻の書」によっており、射法は全く同じであり、ともに三十三間堂の通し矢で競い合ったことは有名です。
尾州竹林流は星野勘左衛門茂則が三十三間堂で天下一となった後、星野派と江戸派に分かれ、その江戸派から明治になって本多利実翁が受け継ぎ、射を正面打ち起しに変えて本多流を確立しました。
自分の流派である竹林流は名古屋でも少数派であり、名古屋以外では殆ど見かけません。これは他の地域に移ると正面打ち起しに転向してしまう人が多いためかも知れません。
現代ではそれほど少数派の流派ですが、射法訓が同じ紀州竹林の3代(中興の祖といわれる)である吉見順正の言葉であり、弓道用語の多く(大三、引き分け、会、離れ、1文字、三重十文字、五重十文字、五部の詰め、四部の離れ、円相、五行陰陽道など)が竹林流の指導書からきていることが不思議でした。
本多利実先生は尾州竹林流から正面打ち起こしに変更しましたが、自ら新しい流派を作ったと言う意識はなく、先生の没後に弟子達が本多流として新しい流派を作り上げたと云われています。
本多先生は竹林流の「四巻の書」を整備、解説され、印刷して近代の弓道として、東大、教育大、学習院などで多くの優秀な後継者を育成したので、本多流の隆盛ばかりでなく、日本弓道連盟の中心となったと思われます。
その結果として尾州竹林流は少数派ですが、四巻の書の教えは本多流を通じて弓道教本のなかに取り入れられて、全国標準になったと思われます。少し言い過ぎかも知れません。
目次 ▲
11-2 流派の因果は巡る
日本弓道連盟の標準とも言えるような本多流が、始めは日置流の一派であったという嘘のような本当の話です。言い換えると、正面打ち起しの本多流が実は斜面打ち起しの日置流であったということです。
現代弓道の先生方の多くが、近代弓道として本多流を学び、日本弓道連盟を設立させ、発展させてきたので、日本弓道連盟流の標準は本多流であると言っても過言ではないと思われます。
前述したように、本多利実先生は日置流尾州竹林派の宗主であり、始めは斜面打ち起しでした。しかし武器としての役割がなくなったことから、武道の近代化として、教育あるいは徳育、体育を重視する考えから、小笠原流などの射礼を取り入れ正面打ち起しに改めました。これは本多流の生弓会のホームページにも書かれています。
もう1つ云えば、新人の方は、正面打ち起しの小笠原流は新しく、日置流が古く見えると思われるかもしれませんが、実はその反対です。
小笠原流は鎌倉時代から続く古い名家で、室町幕府、徳川幕府の弓馬指南役として射法、射礼、格式を教えてきた最も古い流派であり、装束や諸掛けなどにもその古さが残されています。
日置流は戦国末期に生まれ、江戸時代に全盛期を向かえた比較的新しい流派であり、その考え方は合理的、実利的であり、射技、的中にこだわる奥義書はあるが、射礼については殆ど触れていません。
このように、2つの流派の因果が綾のように巡り、入れ替わり、連盟の基礎になったように思われます。
11-3 竹林流の射法
私の学んだ流派は尾州竹林流と言います。江戸時代の初めに僧籍である石堂竹林坊如成が四巻の書を伝えて、日置流竹林派と呼ばれました。
竹林流の射法は、日置流各派、吉田流の斜面と異なり、むしろ正面打ち起しと似通った射法です。
竹林流の取り掛け、手の内は正面打ち起しと同様に正面で丸く円相に構えます。弓構えは羽引きをしたまま、ほぼ平行に左へ送り、ここで引きません。押し手は肱をやや曲げて左脇腹に、勝手は体の中央で肘に張りをもたせます。この時は左に送った分だけ弓構えはひし形になりますが、これを弓懐と云い円相に構えるのが、日置流各派と大きく異なり正面打ち起しに近いのです。
これを「剛の弓懐(きゅうかい)、繋(かけ)の弦道(つるみち)」といいます。
打ち起しは斜面に引き分けながら、勝手は肘を張ったまま、弓構えから真っ直ぐ上に(左乳の上を通って)反り橋に上げ、大三を取ります。この大三およびそれ以降は正面と全く同じ位置です。
すなわち弓構えから大三に打ち起こす間を正面では縦に上げてから横に大三に至るのに対して、竹林では横に移行してから縦に上げる順序が異なるのです。
この打ち起しの違いの特徴は、竹林流は押し手、勝手の手の内が決まり易く、弓手の勢いを持たせるのに都合が良い反面、肩の十文字が崩れやすいのが欠点であるように思われます。本多翁が近代化のために変更したのはこの辺であろうと思われます。
また、押手の肘は棒のように伸ばしきるのを「突く」と言って嫌います。当流の押手の肘は「猿臂の射(えんびのしゃ)」と言って猿腕のように、円相に構えた肘のまま、肘に弾力を持たせたまま引き分けるのを大事とします。これは会から離れにおいて押手に伸び合いの余地を持たせるためと思われます。
11-4 三十三間堂の通し矢
三十三間堂の通し矢は、鉄砲の出現で武器として意味を失った弓道が、武士道の名誉を賭けて魂と肉体の限界を競うことで、弓道史の中で燦然と光り輝くイベントでした。三十三間堂は京都の国宝のお堂で、正面には階段などがあり入り組んでいますが、お堂の裏側は縁側が回廊となっており、障害物なく長さ66間の一直線になっています。
三十三間堂の長さが66間と言うのは変ですが、お堂は大きい柱が2間間隔で並んでおり、これを「一ま」と言い、「33ま」すなわち66間となります。弓を引くときは縁側に腰掛けて引き、控えの距離などから120m程度であったと考えられます。
通し矢はその名のとおり、縁側で引いた矢が軒に当たらず、縁にすらず縁側の幅で通り抜けた本数を1昼夜(24時間で)競うものです。120mを軒に当てないで通すためには30キロくらいの強弓が必要になります。
通し矢は個人の名誉というより、所属している藩の名誉のためもあり、初期の頃の記録は数百本程度でしたが、紀州竹林の吉見台右衛門が6千本通して記録をたて、尾州竹林流の星野勘左衛門が8千本を通す大記録を打ち立てました。まさにこれは日本新記録でした。
しかし記録は破られるもので、紀州竹林流の和佐大八郎が8千133本の新記録を打ち立て、これが最高記録となりました。
24時間で1万本の矢を引くのは平均9秒となりますが、トイレ休憩や栄養補給も必要ですし、疲労もたまりますので、平均6秒くらいで矢番えから離れまでを行うという速射射法でした。矢番え、とり掛け、打ち起し、引き分け、会、離れ、が各1秒位でしょうか。
このように速射では在りましたが、早気では在りません、早いながらきちっとコントロールしないと矢が通りません。現代の弓引きでは、殆ど引けないような強弓を数百本でなく、1万本引くのですから、まさに怪物の仕業といえるでしょう。
また堂射は弓具の発展をもたらしました。すなわち、堅帽子掛けの普及、短めの差し弓、差し矢(遠矢)などであり、掛けはそれまでのグローブのような掛けから、現代の堅掛けが使われるようになりました。
勝手は肩に肩パッドをつけて位置を決め、押手には押手掛けを使用し、くすねを塗りつけて、離れで弓を握りこんで弓返りしないように打ち切りとしていました。
11-5 古い考えと新しい考え
弓道の射法を科学的に追求していく時、現代の弓道書よりも、意外にも昔の(江戸時代)の極意書の方が論理的に考えているのに驚かされます。
昔のものの考え方は一般に形而上学的であり、観念的なものが強い時代に、日置流、竹林流の伝書はどちらかと云えば唯物的な立場で書かれています。
これは弓を引くということ自体が典型的な物理現象であることに起因しているかもしれません。
そんなわけで、「弓道の新研究」のみならず、よもやま話までも、昔の弓道教歌が主要なテーマとして扱われており、わたしもその一人です。
11-6 萬法一に帰す
弓暦45年にもなって(途中20年のブランクがあります)、四方山話にいろいろ書いてきたのに、最近初めて弓道教本の第2、3巻を読んだのは、恥ずかしい限りです。
一昨年4段を受けるときに第1巻から第4巻までまとめて買おうとした時、2巻、3巻はあまり読まれないようですよと、弓具店の親父が云うもので、つい読むのを控えてしまいました。
一方、道場にかかっている額はなんだろうという話があり、私は「萬芸一に帰す」と書いてあるのだろうと思っていましたが、本村先生から「萬法一に帰す」であり、弓道教本の第2巻、3巻にあるよと、教えられましたので、先日買って読みました。
第2、3巻は射技編であり、射技の技術論に終始しているかなと思っていましたが、全篇の半分以上は射法における精神性との合一がいかに重要であるかを、各先生のお考えで展開されており、極めて格調高いものとなっています。
この中に「萬法一に帰す」があり、心意弓(心技体、真行想、あるいは審善美)の三位一体について格調高き精神論を展開されているが、私にはさっぱり判らないのが実情です。
この第2、3巻は百家争論というか、先生方のお考え、各流派の考えがあり過ぎて相当な反発も感じざるを得ません。これらの中には宗教的、観念的、唯心論的な考えの弓道論があり、反対に日置流や竹林のように、仏教的な面はあるものの具象的で、合理的な射法論を淡々と展開するものもあり、さらに最も極端にはI範士のように一切の射法原理を自分流の独断と偏見でばっさりと切り捨てて、独自の主張を展開しているのまであり、幅の広さには驚かされます。
しかし、A範士の観念論やI範士の我流理論が、この教本の評価を複雑にしたとは云いすぎでしょうか。
結局、自分が共感できるのは、さきに真理ありきのような観念論ではなく、弓道の真髄を具体的に合理的に淡々と教えてくれる先生が好きです。その点では浦上先生、富田先生の射技理論は凄いと思います。
11-7 観念的弓道にあらず、合理的弓道をめざす
弓道の理想は理念が大切であることから、観念的・精神的弓道論が主となり、さらには射即人生、とか一射絶命というように射に宗教的な意義を求める流れもあります。
私は先に真理があってその真理に近づければ、全てができるというような観念論的弓道は受け入れられません。
矢を素直に飛ばすにはどうすべきか、弓の働きと力の働かせ方はどうあるべきか、何故こうするのか、などを自分で考えて求める姿勢が好きです。
千葉県弓道連盟の吉原会長は良くこの言葉をいわれています。もともと弓道は合理的にできているので、理にかなって行えば中るようにできているものです。
竹林流は流祖が僧籍であるので、相当に宗教的であるが、もともと仏教はキリスト教のように観念論的ではなく、自分で森羅万象の仕組み、生命の輪廻を理解し、覚ることを求める宗教です。
山にこもって、世間にもまれて、座禅によって瞑想して、森羅万象と生死の輪廻を自分で理解するのが仏教の世界です。
したがって、竹林は昔流ながら、結構理屈を考える射法であるといえます。
射法訓の前文で言っているように、弓道の修練というものは、すぐに動揺して安定しない心と身をもって、自在の活力を有する弓を用いて、静止不動の的を射貫くものであるので、心を正しくきちっとして、身(射技)を正しくして、気持ちを充実させ、正しい射法を学び、修行に邁進する一途あるだけであると述べています。
さらに、正しい射法とはどうあるべきかを解いています。
これが、精神と理論と技術の三位一体を含めた合理的弓道論と思います。即ち、射法の理屈を理解したうえで、少しでも会得できるように努力するのが、合理的弓道理論であると信ずるものです。
11-8 吉野山で雪中弓道合宿
2004年3月6、7日は、奈良の吉野山の竹林院に名古屋の弓仲間と弓道合宿に行ってきました。吉野山は桜の花見で有名ですが、一寸早かったので桜吹雪ではなく本当の吹雪の中の合宿となりました。雪が10センチほど積もって、竹林院門蹟、庭園(千利休築庭の群芳園)は幻想的で、まるで水墨画の世界でした。また豊臣秀吉がお花見に来た時の、道具や屏風など国宝級の宝物が陳列されていました。
弓道場は30年ほど前に建設されたもので、あづちは硬くなっていて、少しあれていましたが、竹林に囲まれて、とても落ち着いた環境でした。しかしこの2日間は雪が降り続き、雪の中に埋もれて凍えながらの弓道鍛錬でしたが、お互いに指摘しあって、充実感のある合宿となりました。
この合宿は竹林流の源流を訪ねるのが目的でした。訪問する前の調査では竹林院には大弓法師が居たと言う伝説はあるが、竹林坊は後年名古屋の清洲に移り住んで死去しているので、その僧侶が竹林流の流祖であると言う確証がないとのことでした。
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▲竹林坊肖像と伝説の霊弓
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しかし、宿の長老(90歳で先代の院主)から竹林坊如成(豊臣秀吉の頃の人)が竹林院の第23世院主の尊祐であったという証拠の数々を見せてもらい感動しました。
掛け軸の竹林坊の肖像画は目がぎょろりとしたやかん頭で雪舟の達磨大師のようであり、漫画のような絵でした。重要文化財級の絵であろうと思いました。弓道書としては四分冊の弓道書がありましたが、それは千ヶ条の弓道書(なぜか小笠原流と思われる)であり、四巻の書はありませんでした。しかし、もっと探せば、竹林流の奥義書(四巻の書)が見つかるかも知れないと思いました。
また、吉見順正(射法訓)の外孫の須藤という人が、明和7年3月に、今回の我々のように竹林院を訪ねて竹林坊の肖像画や剛弓(霊弓)を拝見して感動したお礼の手紙がありました。吉見台右衛門(順正)、和佐大八郎の名前が出ています。これを見て、我々一同は竹林坊が尊祐院主であることを確信できました。
この手紙の文章で、自分を「拙者」ではなく「僕」と現代風に云い、また「弓術」ではなく、「弓道」と記しているのは一寸面白いと思いました。そういえば、吉見順正の「射法訓」の前文は「そもそも弓道の修練は」という書き出しで始まっています。竹林流では当初から「弓道」と言っていました。ともかく、この人は吉見順正の孫であるので、江戸時代中期の古い手紙であります。
竹林坊が引いていたと言われる伝説の剛弓(霊弓)は外竹が少しはがれていましたが、飴色に輝き、400年のつやとこくがでており、弓を手に取ってみて感動しました。弓は幅も厚さも約一寸二分(約36mm)あり、真四角で恐ろしく太いもので、私では指が届かず握れません。よほど手の大きい人でも握れない太さであります。
弓の強さは幅に比例し、厚さの3乗に比例します。私の弓は幅が28mm、厚さが六分(約18mm)で強さが約20キロですので、この弓は推定約200キロ以上の強さとなり、おそらく史上最古にして、最強の弓でしょう。しかしここまでになると実際に引くのは無理のように思われるので、これは実際に使っていたものではなくて、奉納されたものが伝説の弓となったのではないかと想像されます。
こんな素晴らしい弓道合宿でしたが、宿は昭和天皇陛下が宿泊されたこともある由緒正しい国際観光旅館であり、料理は美味しいボタンなべ、お風呂はこじんまりとした露天風呂まであって、係りも親切、サービスも満点で大満足でした。
11-9 私説・日本弓道の歴史
日本弓道の発達の歴史については弓道教本の第1巻に詳細に述べられています。自分も定かな調査や根拠があるわけではありませんが、弓道の発展について自分かってな思い込みで書いてみましょう。
日本弓道の発達は大きく分けて、次の4段階に分類できると思います。
- 狩猟の手段として発達
- 戦争の武器としての発展
- 武士道における心身の修行として確立
- 体育、徳育としての発達
1.狩猟の手段としての発達
これは有史以前の生活手段としての道具であり、石器時代には長野県の和田峠で産出される黒曜石の鏃が日本全国で発見されていることから、優れた道具は物々交換の時代でも交換レートの高いものであったと思われる。長弓については南洋の海洋民族に共通しているとの意見もあるが、現代でも簡単には往来できないのに、南洋の古代人がカヌーに乗って弓矢を伝えたとは考え難い。世界の民族に共通する自然発生的なものと考えられる。
2.戦争の武器として
日本のみならず世界中の弓はいずれも戦争の武器として発達したことは自明である。
ここで日本の歴史を大まかに分類すると、全国が分裂して群雄割拠の時代→武力統一による強大な国家の成立→平和国家に慣れて軟弱化するとまた乱世となる。これが、古代、鎌倉時代、安土桃山〜江戸時代、明治維新と4回ほど繰り返えされたものといえる。乱世、およびその統一時期には武器の性能研究が盛んになって発達し、平和の時代には衰退する傾向があったと思われる。
3世紀の魏史倭人伝(三国志の時代)には、日本の弓について「兵は木弓を用い、木弓は上が長く下は短く、竹の矢、鉄製あるいは骨製の鏃を用いる」と記されている。当時はちょうど卑弥呼の率いる邪馬台国(やまとと読める)が日本を統一した時期であり、また日本を東夷と云い、東方の大弓を持つ人と呼んでいたことからも、すでに現代と同じように長弓を用い中央よりも下のほうを握る射法であったことが判る。
その後、奈良、平安時代の大和朝廷は平和の時代であり、文学や詩歌が教養として尊ばれ、武術は野蛮なものとして衰退したと考えられる。この時代の弓術は日本流(やまとりゅう)と呼ばれ、実戦よりも儀礼的なものが主体であったと思われる。
平安末期の源平時代から鎌倉時代にかけては、武家の争い(源平の戦い)などから武術としては最高の発達を遂げた時代であろうと思われる。源の為朝が鉄弓(鉄芯入り)をひいて船を沈没させた伝説、あるいは平家物語で那須与一が波打ち際から船上の扇の的を射抜いた話は有名である。
鎌倉時代の名刀、甲冑は後の時代のものに比べて最高品であったことを考えれば、弓も鎌倉時代のものが、最高品質であったのではないかと考えられる。この鎌倉弓術の射法についてはよく判らないが、精神修養的なものでなく実践的なものであったと思われる。現代では小笠原流が鎌倉源氏からの古い名家としてその伝統を伝承しているので、その弓術は流鏑馬、百手式、草鹿子、犬追物などのように、近的道場での鍛錬よりも、むしろ戦場や狩場での射法やその実践練習としての面影が強く残されている。(これらについては射法ドットコム「射法は寝て待て」にその一部を伺い知ることができます)
3.武士道の修養としての発達
皮肉なことに、弓道の基礎は戦国時代に鉄砲が伝来して、武器としては時代遅れになりつつある頃に、日置弾正政次、日置弥左衛門が日置流弓術書を著し、さらに江戸時代の創世期に竹林坊如成などが弓道の射技理論を発展させ、日置流(吉田流)各派など現代に残る各流派の弓道が確立したものであった。
江戸時代は太平の時代を維持するため、鉄砲などの製造、開発、練習を厳しく禁じたとともに、実践的な兵器の発展は途絶えたが、弓道は武士道の修行として、実践武道よりも精神的な側面を深く追求する方向の徳育として発展したものと思われる。
たとえば、15間(28m)の近的道場における稽古は、戦場での実戦武道としては近すぎて、悠々と弓構えをしている間に敵に踏み込まれて勝負にはならないはずであるが、自己を省みる修養の道場として、確立されたものと考えられる。
4.体育、徳育としての発達
明治になって西洋流の合理主義の時代となり、弓道は武器としてはもはや全く役に立たないものとみなされたが、一高、東大など多数の学校で弓術部教授を歴任された本多利実先生(本多流の祖)が新時代の学校教育の一環として剣道、柔道などとともに、健全な体育と徳育を育成できる武道教育としてその普及に尽力された。また先生に育成された多くの高名な弟子達が全国に指導者として広がり、現在の日本弓道連盟を確立したといえる。
11-10 続・三十三間堂の通し矢
四巻の書 七道 離の事 別の離れにおいて、星野勘左衛門は堂射について、以下のような注釈をしています。
「京都大仏の別堂、世に三十三間堂と呼ばれる観音堂あり。堂の長さ64間1尺8寸6分(115.8m)、縁の幅7尺3寸(2.2m)、闇の高さ1丈7尺5寸5分、一の垂木の高さ1丈6尺5寸、二の垂木の高さ1丈5尺9寸、舛形の高さ1丈4尺7寸8分(4.48m)
-中略-
射前は南のこぐちより7尺9寸(2.4m)なり。この堂を射通すにはこの間数(118.2m)と高さ(4.4m)を考えるべし。その矢が縁板に掛からずに直に射通さんと射れば、矢のり高ければ軒につかえ、低く射れば縁板に落ちて矢通らず。これを射るには矢のり矢勢の強い、別の離れでなくては叶わぬことである。別の離れを熟得して射れば、心のままに通るなり。以下略」
堂射では高さを低くするため、縁側に両膝をつき、風呂椅子のようなものに腰掛けて射るので、矢の高さは0.8m程度となり、軒下とはさらに3尺(0.9m)程度の余裕を見込まないと通せないので、結局120mの距離を高さ2.7m以下のライズで射ることになります。
20キロの弓で60mの遠的を行うときのライズは「続・高さの狙い」での計算から1.4mでありましたので、120mではその4倍の5.6mとなり、矢は通りません。ここで、120mの距離を高さ2.7mのライズで通すために必要な弓の強度を逆算してみると、高さのライズと弓の強度は逆比例するので、弓の強度は少なくとも、20×5.6/2.7=41キロの強弓となります。
さて、通し矢で使用したと思われる強弓の太さについて想定してみましょう。「弓の薀蓄」において、弓の強度は手幅に比例し、厚さの3乗に比例することを書きました。私の弓は手幅が28mm、厚さは握りの上で18mm(6分)であり、85cmの矢束でちょうど20キロ程度です。これを基準にして、手幅は変わらないものとして、通し矢の強弓の厚さを想定すると、弓の強度比の3乗根を掛けて求められます。(3√(41/20))×18=1.26×18=22.7mm(7分5厘)となります。
厚さ23mm(7分5厘)の弓といっても、若い人にはピンとこないでしょうが、実際にこれを手にすると、結構分厚くて天秤棒のような感じになるでしょう。通し矢では、これを24時間(星野勘左衛門は18時間)かけて1万本も引いたのですから、まさに怪物のなせる業でしょう。
11-11 竹林坊如成の終焉のなぞ
竹林坊如成は「一遍の射(四巻の書の原本)」を著し、尾張松平忠吉卿に奉仕して多くの門弟を育成し日置流竹林派と呼ばれました。次男の貞次が弓の名手になって家督と竹林流の印可を唯一伝授した後は隠居しました。そして再び出家して何処へか消息を絶ち、石堂家にも門弟にも連絡無く何時何処でなくなったか不明という謎の多い人物でした。
尾州竹林流星野派第11代道統の故富田常正先生のライフワークである「尾州竹林流四巻の書註解」の付録「竹林流正統系譜」、および「尾張国竹林流繁盛記」の記述には
石堂家譜に曰く、石堂竹林坊如成は江州石堂村の産、北村某の子なり、末男なるにより幼年より山(比叡山)に登り(出家)し竹林坊に住す。山徒(山伏)もとより武芸を好み、かつその身士流なるにより(郷士の出)射芸を好み、その術に達す。たまたま浪人(安松なるべしとあるが、弓削であろう)来たりて僧徒(僧兵、山伏)を集め、射芸を教ゆことあり、如成もっとも器用たるにより、程なく奥義を極め印可を得たり。(略)ますます射芸をもって名を得たり。したがって学ぶもの日々多し。かつまた手跡(書道)を能くし蹴鞠に達す(名人のことか)。天正の末年(1592年)病みて卒す。
とあります。さらに註には
如成のことについてはこれで終わっている。如成が尾州の地に来たことには何の記事もない。しかも没年も終焉の土地も知ることができない。石堂家譜の最終の頁に小泉善九郎(尾州の家臣御弓役四代目の士で文化年中に没す)の調査報告のようなものが加筆されている。
とあります。
北村竹林坊如成 法名は左のとおり。元和二年丙辰年(1616年)十月十七日卒。弓照院大日師と号す。墓所不明。右のとおり相見え申し候あいだ伝えて申し上げ候 小泉善九郎 岡部七郎殿
富田先生は「如成の法名没年はこの記事以外に見たことがないから、直に信ずることはできないが、一応新しい発見として取り上げておく外はない。」と述べています。
また、富田先生の同繁盛記には、荒川良清氏の「竹林流覚書」からの引用として、竹林坊の出生、出家、弓の修行、還俗などのあとに、尾州の清洲にきて、弟子の安倍勘兵衛を通じて尾州松平忠吉侯に言上され、息子の林左衛門(貞次)を伴って250石、弓役を賜る事情を伝えています。
(中略)その後、竹林坊のことは比叡山に立ち帰りたるとも云い、伏見へ行きて病死とも云う。その終わる所は不分明なり。
とあります。
これまで尾州側の多くの資料からは竹林坊のその後の消息は不明でしたが、インターネットによって竹林院のホームページから偶然に竹林坊の消息を見つけたことは、流派マニアにとって大発見でした。
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▲吉見順正外孫から竹林院への礼状
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これについては、すでにこの巻の「11-8 吉野山雪中弓道合宿」において、竹林坊の終焉の地が吉野山の金峯山寺の竹林院(修験宗本山)であり、その23代の尊祐院主が竹林坊であるという記事を書きました。ここで、竹林坊が吉野山の竹林院にいたという証明が、皮肉にも紀州竹林流の吉見台右衛門(順正)の外孫である須藤○左衛門が明和七年(1770年)に竹林院を訪れて、流祖如成の遺品、霊弓に接して感激した礼状からでした。
竹林坊が何故家族を捨てて再び出家したのかは不明ですが、自己の確立した弓道には執心したけれども、多くの門弟も育て、尾州家の弓奉行としての家督と弓道の印可を譲った後にはそれ以上の欲はなく、定年を迎えたサラリーマンが田園生活に回帰するように、修験者として再び修行の道に戻ったのではなかろうかと想像できます。
吉野山は和歌山市の東方30キロ程度、紀ノ川の上流が吉野川(奈良県)であり、紀州には近いので紀州竹林には消息が伝わったのではないかと思われます。
竹林坊の宗派については真言宗(高野山)あるいは天台宗(比叡山)とも言われはっきりしませんが、ともかく密教であり、不動明王や大日如来の信仰でした。吉野山金峯山寺は「役の行者」が開祖の修験道(山伏)の総本山で、南朝の本拠地がありました。場所は高野山の東隣でありますが、宗派的には真言宗とも天台宗とも関連しています。
仏教では本来不殺生であるのに、その師がこの時代に人を殺める武道を極めるのには不釣合いと思われますが、いわゆる巷の仏教ではなく、修験道の山伏であれば武道はふさわしいのかも知れません。大日如来を信仰し、不動明王を唱え、山上ケ岳(奥の院海抜2000m)への奥駆け修行と千日回峰の荒行によって、武道のさらなる奥義を追求したのかも知れません。
近年この地は世界遺産に登録された日本屈指の大自然ですが、私は行ったことはありません。
11-12 続々・三十三間堂の通し矢
以前、三十三間堂の通し矢に使用した弓の強度を、お堂の高さと距離から推定しましたが、星野勘左衛門が三十三間堂で天下一を取ったときの弓の詳細な記述がありましたので、その強度をまた推定したいと思います。
2004年10月号の「弓道」誌に「射法と懸けの関係について(4)」という論文を故魚住文衛先生が書かれています。(実際には魚住一郎範士が編集して投稿されたもの)
その中に、星野勘左衛門が総矢数10,542本を射て8,000本を射通した時に使用した弓が、尾張徳川家の蓬左文庫(徳川美術館)所蔵の「日置流四巻の書」星野勘左衛門指矢の巻に記されているのを紹介しています。またその弓も徳川美術館に陳列されています。
八千の天下一のときより矢束は二尺八寸七分(87cm)。弓のほこ(長さ)は矢束によってきまり、この矢束には六尺八寸(206cm)を用いる。ただし握り下二尺四寸(73cm)。(略)弓の分は六分八厘(20.6mm)、また、弓の幅は八分三厘(25.1mm)でありやや狭く、村取りしている、と記されています。
弓の強さについては2−1「弓の薀蓄」で述べたように、矢束の長さに比例し、弓に幅に比例し、弓の厚さの3乗(^3)に比例し、弓の長さの3乗に反比例します。自分の弓を基準にして想定してみましょう。
私の場合は、弓の長さは並寸、つまり7尺3寸=221cmで、弓の幅が26.5mm、厚さが18mm、矢束が82cmで、強さは約20キロです。したがって星野の弓の強さを今風に想定すれば、
P=20×(87 / 82)×(25.1 / 26.5)×(20.6 / 18.0)^3×(221 /
206)^3
=20×1.06×0.947×1.50×1.23
=37
すなわち、37キロ程度に相当する強弓であったことがわかります。
11-10「続・三十三間堂の通し矢」では41キロと想定していましたが、やや小さめの数値ながら概ね一致しています。また、弓の厚さを七分五厘(23mm)と想定していましたが、実際は六分八厘(21mm)であり、この差は弓が15cmほど短かい「差し弓」だった影響であると考えられます。
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