櫻井孝が語る「弓道四方山話」尾州竹林の独り言

 

天の巻地の巻修学の巻父の巻母の巻掛け橋の巻十文字の巻

石火の巻紫部の巻未来身の巻流水の巻文の巻トップページ

文責:櫻井 孝(プロフィール


巻の八 石火の巻

8-1 離れ

8-2 十文字離れと十字架離れ

8-3 離れの回転と指使い

8-4 小指の効能

8-5 割れる離れと開く離れ

8-6 離れはコントロールすべきか

8-7 鉄石相克して火いずること急なり

8-8 矢は右に飛ぶようになっている

8-9 大離れと小離れ

8-10 弓の分かれ、弦の分かれ、矢の分かれ

8-11 ビクリについて

8-12 すぐに引いて、すぐに離す

8-13 心の動揺

8-14 的に囚われるなとは

8-15 的付けは明確である

8-16 一分三界ということ

8-17 四つの離れ(切、払、別、券)のこと New!


8-1 離れ

1)グー、チョキ、パーの離れ

 離れについて、教本では詰めあい、伸び合いの充実に加えて、気合の発動によって自然に離れてゆくのが理想であると書かれています。誰も妻手でぱっと離せというような下品な解説はありません。

 しかし、気合の発動だけでは離れは出ません、弦に絡めた親指が絞り込んでいる間はロックされていますので、これをフェザータッチで開放(リリース)して弦が親指の溝から分離したとき初めて離れとなります。すなわち指に接着剤を塗ったら、離れは出ません。

 離れ口をスローモーションで考えて見ましょう。会では途中で外れないように、妻手を左回転の絞りによって溝にロックすることで安心して引き納めることが出来ます。気が充実して、離れる瞬間には、掛けの親指と中指(薬指)の間が開き弦が分離するのですが、妻手を絞ったままでは溝に絡まっているので、手の平を大きくぱっと開かねばならなくなります。これがパーの離れです。

 このとき掛け解きによって、指先の力を抜いてぴっと離すのがチョキの離れです。

 さらに、解ける瞬間に絞込みの反動でぱちんとはじけるように指パッチンで握りこむのが、グーの離れです。これは掛け口が絡まっているのを、丁度知恵の輪のように、するっと解くことが出来、握ったままのように見えます。この離れを出すには、会では親指を伸ばして一文字とし、中指もなるべくのばして親指を軽く抑え、人指し指は中指に添えるのが良いです。このときの形は兎ににており、チョキからグーになります。 少し表現が下世話でしたが、緩みのない、軽い離れを出したいと思います。

2)軽妙な離れについて

 理想の離れは、四部の離れ、鸚鵡の離れ、石火の離れ、あるいは雨露利(うろり)の離れと云い、いずれも自然な、軽妙な離れといえます。

 うろりの離れは芋の葉に露の水滴がたまって、ぽとりと落ちるようなイメージであり、黄桜の呑のように酒の雫が落ちるのではありません。

 この離れは静的な感じがあるので、会の釣り合いの中で、力を抜いて軽く離そうと考えるのは大きな間違いです。

 軽い離れを出すためには、胸の力、両肩の力、肘の力、両手の内の力は抜いてはいけません。これは5部の詰めでなく、5部の緩みとなり、離れがしぼんでしまいます。いくら待っても離れず、たまった露は乾燥して、落ちなくなってしまいます。

 軽妙な離れを出すためには、必要な力は保ちながら、指先や手首を楽にして、掛けを一瞬にするっと抜いてやるのがコツであると思います。

 古い書物では、「離れをば弓にも身にも知らせぬが良き」と云っています。この意味は一寸判りにくいですが、「離れの瞬間は弓も体も気が付かないくらい無意識に離れてしまうのが宜しい」と解説されています。

 ただし、腕相撲のように腕力に頼って引いている場合は、手繰り弓であり、押し引きが相克してどこまでも頑張るので、軽妙な離れが出なくなります。 これも力を抜くのではなく、適正な矢束を見つけて、骨に嵌めるコツ(骨法)を掴むように心がけると良いでしょう。


8-2 十文字離れと十字架離れ

 射法の基本が三重十文字、五重十文字にあり、離れもまた十文字の大離れが良いことは異論が無いでしょう。しかし、十字架のような一直線の離れは良いとは云えません。

 十字架離れと云うのは私が勝手に付けた名前ですが、肘を固定して肘の関節をコンパスの支点にして開く離れです。この離れは肘が止まっており、離れの瞬間には勝手は矢筋に対してほぼ直角の上方向に回転しますので、ゆるみ離れになっているのに、気がつかない点が問題です。

 十文字の離れは会で五重十文字を効かせると、両手、両肩、胸筋の五箇所の詰め(五部の詰め)となり、伸びあいによって胸筋で割れるように火打石を打ってパンと火花が飛ぶように離れを出すと、両手、両肩の四箇所が同時に離れる四部の離れ(最高の離れ)となります。この離れは両肩が支点となって回転するので、肘は肩から後ろに開き「くの字」の形になりますが、伸びがあれば、勝手の手先は伸びて、やや「くの字」ながら大きく伸びて大離れとなります。八節図解の離れの形がこれです。この十文字の離れでは肘の関節は「くの字」が伸縮しますが、押手と勝手は矢筋方向に一直線に伸びてゆきます。十字架離れは大きく離そうとする意識から、かえって両手先だけ(2箇所)で離しているのです。

 このような離れを矯正するには、紐を使った練習方法があります。ゴムひも、あるいは切れ弦を左右に引っ張ったまま、他人にはさみで切ってもらいますと、自然な離れが出やすいと思います。慣れたら次には、紐をひぱったまま、はさみでなく指先で軽く離してみます。これで自然な離れが出せると思います。これらはイメージを自分で持つことが肝心と思います。


8-3 離れの回転と指使い

 日置流の浦上先生の本では、三つ掛けでは親指を一文字にして、肱を内側に絞込んだまま押手の角見を効かすことにより一文字に離れる、四つ掛けの場合には捻りを戻しながら離す、とありますが、自分の考えは少し違います。

 三つ掛けの場合でも左回転に肱を絞ったままの離れは三味線離れであり、弦は必ず親指を擦って引きちぎった離れとなるはずです。

 石岡先生の「弓道の新研究」では弦が掛けの弦枕から分離するのが離れであり、どこにも引っかからないように離れる必要があるとあり、離れの後勝手の手の平は的を照らす(的に向き合う)とあり、自分もそう考えています。

 四つ掛けの離れでも、離れる寸前に絞り込みを緩めて離すのではなく、絞り込んだまま、爪弾きで掛け金が外される反動で捻りが一瞬に戻されるのです。

 もともと取りかけの状態では、掛けは親指と手のひらがカタカナのコの字のような形で平行に弦を弦枕に絡ませ指を結びます。

 このとき弦は上から見ると曲げられず一直線であり、このままでは弦は直ぐにはずれてしまいますが、若干掛けを絞ることによって、掛けの捻り皮(矢の根を抑える指の股にあたるところ)によって弦がS字状に捻られてロックされ、掛け金がかけられます。

 離れの瞬間では掛けをじりじりと解く(掛け解き)のではなく、絞ったまま一瞬の内に指パッチンで弾いてやると絞り込みの反動で右回転がかかり、掛け口は取り掛けのときのコの字の形になりどこにも引っかからずに離れるというのが私の考えです。

 このとき、親指を弾くと同時に中指を知恵の輪のように引き抜いてやるのが緩みが無くてよいと思います。こうすれば、指は一度も開く動きはなく握りこんでグーの離れとなります。逆にいえば離れで勝手を開く場合には指パッチンとは鳴りません。そしてこの動きは角見の働きとピタリと連動しなくてはいけません。


8-4 小指の効能

 三、四段の審査の講評で「弓返りが三段の条件である」との話がでました。弓返りは角見の効いた結果であると思いますが、握りを強くすると弓返りは途中で止まります。三十三間堂の通し矢では時間が惜しいので、弓返りしないように行っていました。従って弓返りは押手が効いていることの必要条件ではないと思いますが、角見を効かすと弓は180度(向こう弦)位になりますので、せめて90度位になるように新人の方は努力して下さい。弓返りをさせようとしますと、離れの瞬間に握りを緩めてしまう癖がつきます。また勝手のパーの離れもこれと連動した動きと云えます。

 私は、押手も勝手も小指の働きがポイントであると考えています。押手も勝手も小指には大きな力はかかりませんので、絶えず硬く握る必要はありません。

 ゴルフのグリップ、剣道、テニス、野球などどのスポーツでも握りは重要ですが、いずれも硬く握ると腕全体が鈍るので、柔らかく握って、打つ瞬間に握り締めるのがコツです。弓でも同じであり離れで緩めるなんてとんでもないことです。卵中と云って卵を握るようにし、はなれの瞬間に小指を握りこめば、弓は会のときの角度のまま返るはずです。また勝手も離れの瞬間に小指を締めながら、知恵の輪を外すようにするっと抜けばグーの離れが出来、左右の締めがバランスします。このとき締めだけが強いと小離れになりやすく、会の延びがあれば大離れとなります。


8-5 割れる離れと開く離れ

 割れる離れと開く離れの話がありましたが、私は割れて開く離れが理想的な離れと思います。これは四部の離れと同じで両肩、両肱の離れであり、総部の離れとも云います。割れる離れは、引き分けで伸びて、会で肩甲骨が詰まってくる時胸筋に楔を打ち込んでぱっと石を割るように離れるのを云います。胸筋と肩の離れであり、小離れとなりやすく、どちらかといえば昔流の離れです。

 開く離れは、大きく胸を開き両肱、両腕を開く大離れですが、ともすると会の力が止まってしまい、肱を止めて開く十字架離れとなりやすいです。

 割る離れは胸を開くことであり、開く離れは肱を開くことであり、これらは片方のみでは不十分であり、両方を同時に行うのが良いと思います。

 すなわち、割れて開く離れが両肘両肩が同時に離れる理想の離れ、四部の離れであります。このときの残身の肱は一直線ではなくややくの字の形になっているはずです。腕の開きは120度から160度まで開くのが現代弓道の理想でしょう。180度まで開ききるのではなく、少し残すのが味であると思います。


8-6 離れはコントロールすべきか否か

 離れは離しではいけない、自然に離れるのを最良とするのは異論が無いでしょう。「離れは弓にも身にも知らせぬがよき」はこの極意です。

 しかし、自然に離れを出そうとするとき、まず早気となり、持たれ、取られ、緩みになりやすく、スランプに陥りやすいものです。無念無想の離れが理想ですが、そのような離れは消極的になりがちであり、狂いが生じやすいのです。

 むしろ角見を効かせて押し切るように離す、少し荒いくらいの方が的中は結構安定しています。最後の残身までコントロールする離しのほうが、狂いの少ない射となるように思います。

 したがって、「夢中と覚醒」で述べたように、修行の途中の段階では、無念夢想の離れでなく、常に覚めた目でコントロールすることが必要と思います。

 ゴルフで言えば、「球に当てておしまいでなく、フォロースルーまできちっと取るのが大切」といえます。


8-7 鉄石相克して火いずること急なり

 鉄石相克しての鉄石って何でしょう。これは石に鉄をぶつけた時火花が出るようにと説明され、それで問題はありません。しかし、なぜかこれは火打ち石で打つときの軽い火花のような気がします。このほうが軽くパチンといく気がします。

 もう一つは、石を割るのに鉄の楔を打ちつけるように火花を散らしてぱっと割れるイメージがあります。これは5部の詰めで両肩両手の関節が締まって、鎖で縛ったように、あるいは岩のように固まってくるのを、胸の中心に楔を打ち込んで、一瞬にパンと割るイメージです。


8-8 矢は右に飛ぶようになっている

 日本の弓道では矢はとかく右に飛ぶように出来ています。そして、手を打ち、髪を払うようにできています。丁度ゴルフを始めるとスライスボールで右に飛ぶのとよく似ています。ここらの理屈が判ってきて、体で実行できるようになれば一人前です。今日はこれと密接に関係していますが、離れによっても矢が右に出ることを書いてみましょう。

 初心者の人は殆どが右側で引く傾向が強く、離れも勝手離れとなります。離れを勢い良くぱっと離すとき、押手は止めたまま、勝手だけを右手背面に大きく離す傾向があります。これでは弓の偏芯に増して更に右に飛ぶことでしょう。

 ある程度弓の練習をしてゆくと、道場にかかっている射法訓について、教えられます。ここで、「弓手3分の2弦を押し、馬手3分の1弓を引く」と在りますが、これは大三だけの話ではなく、離れのこともあると私は云いたいのです。

 とかく、右利きの人は勝手が強くなりがちですので、左右均等に引き分けて、均等に離すためには、むしろ左を強くし、右を調整すると、丁度いいということになります。ゴルフでも同様に左手主導にしなさいと云われています。

 この右に飛ばさない射法が角見のはたらきであり、テニスや卓球のドライブをかけるように、押手の親指の付け根を左回転のねじりを加えつつ、離れの瞬間にクイッとねじ込むのがコツです。また、矢乗り、狙いはいつも正しく付けることが肝心です。


8-9 大離れと小離れ

 現代の弓道はなぜか大離れが全盛で、小離れが否定されています。昔は初心者の間は大離れがよく、中級、上級者になる程小離れになる傾向にありました。

 今は上級者も大離れを実践しないと、審査に合格しないと聞きます。しかし、なぜ大離れが正しくて、小離れが否定されるのか、理解できません。

 離れの瞬間を高速度撮影で映しますと、離れの瞬間の掛けほどきの段階で、押手、勝手の位置が動く前に弦が勝手の弦枕から分離し、矢は飛び出してゆきます。

 したがって、会から離れにおいて正しく詰め合い伸び合いをしていても、鋭く離れがでれば、離れの一瞬に握りこみを行いますので、残身は惰性でだらだらと延びるのではなく、締まって、止まるでしょう。

 この結果、残身の形はそれなりに締まった形で決るものと思います。

 大離れは両手を大きく開こうと言う意志で両側に伸ばさないと出ないものであり、やや不自然であると思います。

 また小離れは反対に止めようとする意識が強く、伸びが止まって萎縮した離れに陥る危険があります。

 したがって、私は中離れが最も良いと思っています。中離れは幅が広く、一概に表現しにくいですが、両手は矢筋方向に伸びて、右肱は90度〜120度くらいまで開くのが良いと思います。

 小離れが癖になって伸びの無い人は大離れに近い中離れを心がけることによって、伸びのある離れが出せるようになる。

 大離れで両手の手先で放す癖の人は、小離れのイメージを持って練習すれば、鋭く両肩で割る離れのイメージがつかめると思います。

 したがって、いつも印を押したように大離れとするのではなく、時には大離れのイメージ、時には小離れのイメージで周期的に練習するのが、良いと私は思います。


8-10 弓の分かれ、弦の分かれ、矢の分かれ

 弓射の議論をつきつめてゆくと結局、会から離れの瞬間がどうなるのと言う所にきてしまいます。 会者定離の世界は突き詰めても、追い求めても覚れない輪廻の世界、奥義の世界であり、未熟者が酔った勢いで書けるものではないですが、あえて我流の解釈で書いてみましょう。

 弓道八節の会は弦道にしたがって、引かぬ矢束ながら十分に引き分け、肩甲骨、両肩、両肘の関節を合わせて、詰め会い、伸び合いを深める時、パンと割れるように4箇所同時に弾けるのが四部の離れであり、これは総体の離れと云われ、体全体の離れです。

 古書では会と言う言葉は2通りの意味があり、詰め合いの会の他に、勝手の掛けの結びも会と呼んでいる。この場合の会者定離は掛け金の弾き、即ち指パッチンにより弦が弾かれる「弦の別れ」をも意味します。離れの引き金ともいえます。

 この時、鸚鵡の離れであれば、勝手に真似して瞬時に反応する押手があるので、「弓の分かれ」が同時に起きるものとなり、これは角見の働きです。

 そして、両拳がそのまま握りこんでゆく間に、矢は飛び出して、押手の弓返りに移るところで弦から分かれて飛び出してゆく、これが「矢の分かれ」であり、その後で押手が10cm、勝手が20cm開いて離れの形となります。

 これらの所は、故浦上栄先生の本や故石岡先生、あるいは本多流の研究会の高速度撮影に良く示されています。これらは奥義の世界ですが、自分もいつかそのイメージを会得したいものと追い続けたく思います。


8-11 ビクリについて

 会で、もう一寸頑張ろうとする時、突然ビクリがきます。これは突然のくしゃみと同じように、反射神経のなせる業ですので、容易に止められるものでありません。

 私の場合には、練習の時にはそれ程でもありませんが、試合などで気持ちが高ぶっている時、1本目が上手くいって、2本目に入って会を詰めてもう一つ頑張ろうとするときに大きなビクが来ます。気持ちがまだまだと思っているのに、体が反射してしまうためと思います。

 日頃、放しではなく自然な離れでありたいと願い、弓にも身にも知らせぬ離れを目指していますので、気持ちとは裏腹に体が反射してしまうのはなかなか難しいです。

 でも、ビクが出てしまうとガス抜きをしたように、気持ちは一寸おさまりホッとします。しかし、力は一寸苦しくなっていますし、場合によっては指が外れそうになっています。先日の試合では2度目のビクまで出て、発作のようになり自滅してしまいました。

 ビクで苦しんでいるのは上級者や先生も多いので、これは簡単には直らない証拠といえます。自分のリズムを崩さぬように意識すること、離れを意識的に制御することで、精神面を強くすることで、重症にならないようにしたいと思います。


8-12 すぐに引いて、すぐに離す

 「すぐに引いて、すぐに離す射」を目指したいと思っています。

 こう書くと「雑に引いて早気で離す」と誤解されそうですが、そうではなくて真っ直ぐに引いて、真っ直ぐに離し、矢を狙いどおり真っ直ぐに飛ばす射のことです。

 これを直に(ちょくに)引いて、直に離すともいいます。 直とは真っ直ぐに、直角にという意味であり、昔の本では陸(りく、ろく)であるともいいます。骨法陸とは関節が真っ直ぐに嵌っていること、あるいは手の内が弓に直角に当たっていることを云います.

 正直というのも同じことで、正直者のことではなくて、正しく真っ直ぐになっていることを言います。 狙いが正直でないというのは、矢が前に飛ぶから狙いを後ろに付けて引くなど、矢が真っ直ぐでない場合をいいます。

 というわけで、「すぐな射、直な射、骨法の射、正直な射」を目指したいと思います。


8-13 心の動揺

 そもそも弓道の修行はすぐに動揺して収まらない心と体をもって行うものであるので、静止して動かない的を射るだけなのに、なかなか容易ではありません。

 弓道8節のうちの6節まで整っていい形で収めてきても、離れの一瞬に早気、遅気、緩みなどのわずらいが起きてしまうことがあります。これはほとんどが、中てようと思う気持ちが先立って迷ってしまうためです。つまり、離れを急ぎすぎてしまうために、道に達しないものであり、放す心が出てしまうためです。

 射も意識も乗ってきて、狙いがぴたっと付いたとき、よしこれで放して勝利を得ようとの中て気が出てしまい、心を動かすため中らなくなります。

 心を不動にして左右釣り合い、胸に強みを含んだまま「只そのままに離れる」のがよいのです。会で五部の詰め合いが整い、胸の中筋を楔で割って、4箇所同時に離れるのが四部離れであり、詰めが充ちて、自(おのずから)満ちて離るるを本当の離れと知るべし。一瞬でも放つ意識が出るときは離れにあらず。


8-14 的に囚われるなとは

 弓道の修行において、「的に囚われないように」ということを聞くことがあります。そしてこの言葉の対の言葉として、体が嵌って気力の充実を優先するべきだという考え方を聞くこともあります。確かに、的に拘泥せず、骨法と気を充実させるというとなぜか射品が高いような雰囲気があります。

 しかし、このように考えて実行して行くと、矢は前にとびますので知らず知らずのうちに狙いが後ろに行き、どんどん外れてしまっているのに、本人は気づかないことになります。

 この考え方は間違いです。弓道の基本である十文字の基準を学んで、的前に立ったと同時に狙いの方法を先生に教えていただき、弓の矢摺り籐に的を写し取って、絶えず自分の矢が何処を向いているかが判るようにならなければなりません。そして、何時でも矢が的芯に向いているようにしなければなりません。このとき弓の左側に半月に的が割って見えるのが標準ですが、顔の大きさ、骨格、物見の深さにも関係します。

 的を弓に写し取って矢を正確にすることと両肩をはめることとは矛盾しません。むしろそれを疎か(おろそか)にすることのほうが十文字も崩れてしまうものです。

 多くの初心者は矢が前に飛んでいったからと狙いをどんどん後ろに付けているのに、本人はそれが正しいと思っています。これは無知蒙昧というほかなく、左右のバランスは全くわからなくなります。押手が弱いのに後ろに矢が飛びますので、ますます押手を弱く緩めるようになってしまいます。

 「的に囚われる」というのは、前に飛んだから後ろに狙いをつける、下に落ちたから上に狙いをつけるように、正直でないことを言うものです。

 したがって大三から会に至る弦道(弦のとおるレール)は絶えず的を透かしながら通ってくるものであり、これが繰り返し練習していくうちに目をつぶって引き分けてきても会に至るときぴたりと自然に狙いがついてくるようになる(なかなか達成できないが)べきです。これができたとき、「的に囚われない射が達成できた」といえます。

 すなわち、矢は絶えず的芯を向くように気をつけて引き分けるとき、狙いも自然と的芯につくようになるものです。狙いは自分では見えないので先生に教えて頂いて、その位置を矢摺り籐に写し取って覚えこむことが前提条件です。


8-15 的付けは明確である

 「的付けにおけるあいまい性」という弓道の論文をよみました。論文は幾何学的にアプローチし、実験まで行って、理科系的手法で説明しているのですが、自分の考えと一寸違う方向に展開されているので、自分の意見を述べてみます。

 私は的付けというものは「あいまい」ではなく「単純で明快」であると考えています。この論文で「あいまい」といっているのは、「的付けは半月が正しいとする場合にたいしてそれぞれ差がある」ということを書いているようですが、私は「的付けにはもともと個人差があり、半月は平均的、標準的なもの」であると考えていますので、差があって当然といえます。

 この論文では、「『的付け』は右目に映った弓の影に対して、左目でみた的の影がどこに位置するかによって照準を定めることであると定義する」と書いています。

 もちろんこれは正しいのですが、もともと両目で的に焦点を合わせて見ているので、左目でみた的と右目で見た的はまったく同じことになります。したがって、右目だけで的に焦点を当てて見るとき、弓の陰がどこに位置するかだけを考えれば同じであり、左目を閉じて狙っても同じです。こう考えると現象は単純となります。

 中段のところにも「左目は的、右目は弓と別々の物を見ていることになる」と書かれているが、誰もロンドンとパリを一緒に見るような芸当はできません。焦点を合わせているのは常に的であるので、弓を見ることはないはずです。

 左目は的に焦点をあてているだけで弓から離れているので、両眼で見たとき右目でみた弓の陰を透かす役目だけです。したがって、的付けが闇夜になって隠れるときも弓が透けて的が見えるのが左目の役目です。

 この両目の目線と的と弓の関係を図で説明されているのはまったく正しいのですが、私はこの図に矢が的に向かう線を加えて考えています。簡単にするには上で述べたように、左目は関係しないので、右目の線と矢の線の2本の線が弓を挟んで非常に細長い二等辺三角形となります。

 このとき、上から見た頬付け(口割り)の位置から右目の目玉(目頭)までの距離は約3cmくらいとなり、弓の幅とおよそ一致するので、半月となるのです。同様に左目(目じり)と頬付けまでの距離は8cm位と大きいので、左目の目線は弓の左を通り抜けます。それで、左目に映る弓の影は右目に映る弓の影の右側にさらに外れて見えるので、的付けには関係しないのです。

 的付けが変化する要因についてこの論文は触れていませんが、むしろこの点を説明するのが肝心であると私は考えます。

  1. 物見の浅い人の的付けは闇夜(的が弓に隠れるとき矢が的心に向く)になる。逆に深すぎると満月(的が弓から全部出るときに矢が的心に向く)になります。しかし、これらの射手は的付けをその位置にするべきではなく、正しい物見を身に付けることが肝心です。"物見を動かしてみると弓と的の関係が変化する"ことは自分で確認できるので、試して覚えるべし。物見をいっぱいまで向ければ殆どの射手の的付けは半月に近くなるはずです。
  2. 顔の広い人の的付けは、的が離れて満月になり、逆に細い人は闇夜となる。これは骨格のせいであるので、的付けをそれに合わせる必要があります。
  3. 手幅の広い弓、あるいは太い籐を巻いた場合には闇夜になり、逆に細すぎる弓では満月となる。
  4. 遠的の場合には近的よりも四分の一くらい的が弓から出てくる(満月に近くなる)、逆に巻きわらの場合には闇夜となる。

 的の遠近による影響は、上記の頬付けから右目までの距離に対して、的から目までの距離(近的では28.0m、遠的では60m、巻きわらでは1.5m)と的から弓までの距離(50cm程度差し引いた距離)との比例計算となるので、弓の陰との幅が変化します。

 以上のように、まずは胴造りの3重十文字、物見を正しくして十分に向けた会の射形を作ることが先決です。その上で先生に矢筋後方から矢が的心に向かう所を見て教えて頂き、そのとき的が矢摺り籐を透かして映るところを記憶することが必要です。

 矢が前に飛ぶから後ろに的付けをして(闇夜にする)当てようとするのは正直なことではありません。このようにすると必ず押手が弱くなり、ますます前に矢が飛び、押してを打ち、顔を打ち、眼鏡まで飛ばすようになります。矢は絶えず的心に向かうように気を配り、前に飛べば押手が弱いためであることが自分で判るので、押しての働きを工夫するのが弓道の修行であり、上達の近道なのです。


8-16 一分三界ということ

 昔の伝書に「一分三界」という言葉があります。解説によれば、一分は3mmの小さい寸法ですが、これを「過去、現世、未来」という広大な世界のようにみて、そのなかの一分に狙いを付けるようにとありました。

 同じ話のなかに「雪の目付け」というのがあります。これはひらひらと落ちる雪の一つに地面に落ちるまでじっと目をつけて行く稽古をしてゆくとついにはその雪の1片を貫けるようになります。

 また「蚊の目のまつ毛の中をすみかとする『おんしょう』という小さな虫がいるが、修行をつむとついには、これをも貫くようになるとあります。これはしらみの金玉を八つ裂きにするのとおなじであります。(ごめん、一寸下品になりました)

 しかし、私はもっと単純明快に考えています。

 「一分三界」というのは、狙いは籐の一巻にあたる1分(3mm)を上下左右に3分割して1/9の真ん中を狙いなさいというのではないかと考えています。またそれに近い解釈の文を読んだような気がします。

 ところが、実際にはボーっとしていて、籐の一つや二つくらい狂ったまま離してしまっているのが実情です。もっと気楽にかつ正確に狙う必要がありますね。


8-17 四つの離れ(切、払、別、券)のこと

 伝書(四巻の書)七道 離れの事 の節に四つの離れ(切、払、別、券)が出てきます。

「目当てに用ふる四部の離れという心は4箇所にあるぞ。先条(会)で記述した五部の詰めの1ヵ所(胸)を楔と心得て(打ち込んで)、両肩と押手の剛弱、馬手の肘の四部を鉄石相克して石火の出ずるごとく離れるを四部の離れと云うぞ。これは総体の離れであり、これに切、払、別、券という4つの離れの口伝がある。これはみな了簡(場合によって用いる)の離れである。以下略」

 四つの離れというのは離れの極意を言うものではなく、射の形態によって使い分ける離れの種類として説明されています。実際のところ自分にはその区別は良く判りませんが、星野勘左衛門の注釈により、我流の解釈をしてみます。

はきる離れであり、勢いのあるものである。左右にりきみなく剛を含みて石火の出るごとく離れるこころであり、手前詰まる(両手を詰めた小離れか)離れである。これは抜物、堅物(甲冑)などを至近距離から打ち抜く業であるので、気合を込めて電光石火の瞬時に割る鋭い小離れであろう。

ははらう離れであり、肘力に心をつけるべし、これは遠矢を射る離れである。これは左右を引き合ってよく伸びる離れで、手前を大爽に(両手を大きく)射るなり。遠くに射流して用いるものである。遠矢とは距離を定めた的に当てる競技ではなく、飛距離だけを競う技であるので、大きく払うように開いて矢に勢いを乗せる大離れであろう。

はわかるる離れであり、剛の口伝があるように、押手の強さを主とするものである。これは矢が走る離れであり、指矢(さしや:堂射、三十三間堂の通し矢)に用いるものであり、左右へさっと別れるを云う。肩収まる骨早く満ちて一杯に離る骨法であり、活々としたるところである。ゆえに矢は直に出て矢のりに格別なものがある。矢は低く出て遠く送る。矢勢は稽古鍛錬の上にて知るべし、信ずるべし。堂射は120mの距離を軒の梁(3.5m程度)に当てずに低い角度で射通した本数を競う業であり、勢いと正確性と矢早が要求されるので、両腕、両肩がバランスよく別れ飛ぶ大離れであろう。

はちぎる離れである。これは強引に引きちぎるのではなく、約束とか契約と云う意味であり、左右に偏らず、正直(正しく真っ直ぐ)で、近的に用いるものである。これは左右よく引き合いたるまま、胸の楔・雁がねの骨相(肩甲骨)をよくつり合わせて、双方少しも乱れのないように、曲尺を合わせて、証文を交わすように察知するべし、おのずから離れるが随一である。これは正射であり、的前(28m)に用いる基本的な離れである。これは全ての規矩を合わせて和合した後、両腕、両肩がバランスよく自然に離れた中離れであろうと思われる。

 ところで、射の真・行・草、あるいは書道では楷書、行書、草書といいますが、券(契)る離れが真の業、楷書であり、現代弓道の近的射法であす。切、払、別の離れは行・草であり、応用の業といえますが、現代弓道では堂射のような別れる離れも伸びのある大離れとして推奨されています。


射法.com