櫻井孝が語る「弓道四方山話」尾州竹林の独り言

 

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文責:櫻井 孝(プロフィール


巻の壱 天の巻

1-1 大円覚とは円相の心である

1-2 我は大日如来なりと思うべし

1-3 自分に合った弓を使うこと

1-4 弓身意の三位一体

1-5 弓弦矢の調和

1-6 コツと骨法とウエイトリフテイング

1-7 五行陰陽道 加筆訂正

1-8 夢中と覚醒と無念無想

1-9 弓道の幻影

1-10 射法訓に前文がありました

1-11 礼記射義・射法訓

1-12 「即ち、金体白色---」の即ち

1-13 位なりの位とは

1-14 続・位なりの位とは 加筆訂正

1-15 円相の構えは幼子を抱くように

1-16 胴造りの大日の曲尺は座禅の心

1-17 弓道の修行と彫刻の類似性

1-18 ねんねん小坊主とは

1-19 射という字は身を寸とするものなり

1-20 弓矢を取ること審固なりの審固とは

1-21 心の騒静は七情を去って寝々子法師に至れ New!


1-1 大円覚とは円相の心である

 大円覚とは竹林流の射法の原点であり、「大日の曲尺」のことをいいます。四巻の書の序文には、「弓道を習おうとする人々は、数多く(108)の煩悩や、計り知れない重罪をも全て直ちに消し去って澄みやかな気持ちにならなければなりません。そして大円の覚りである佛(仏と云う字は弓と2本の矢を持った人と書く)の弟子となり先生の教えを信じ、伽藍(道場)を住家として修行にはげめば、命永く誠の心をもって達成できる」とあります。

 ここで、円覚とは円相の心を悟るということです。円相と云うのは、恩師である魚住十段範士によれば、ただ単に丸く構えよと云うだけでなく、全てに中庸であるという規範のことであると教えています。

1.心の円相とは「大日の曲尺」のように悠然とした無念夢想の心。

2.目使いの円相も仏の心のように、無念無想の半眼であり、自分の射を客観的に見るような悠然とした態度が必要。

3.力の円相は常によどみなく、左右均等に釣り合いを思いながら、調和すること。押手を強く、勝手も負けないように強く引くのはいつまでもけんかする無益であり、かえって弱みとなります。父母の心が大切である、ここで云う父は押手のこと、母は勝手のことであり、子は矢です。父母が仲たがいをしていては子は育たない、父も母も互いに思いやり、調和するこころが会の釣り合いです。

4.流れの円相は常に適正な速度と流れがあり、連続と始中終のめりはりが必要。また力の曲線は常に増大曲線であり、あそび、持たれ、緩みに繋がってはなりません。ただ伸びて緩まざるように離れまで連続させることが大切。

5.息会いの円相には体配ではリズムとメリハリを用い、射技には静かに長い穏やかな息会いを用います。引き分けで吐くという教えもありますが、私は打ち起しあるいは大三でしっかりと吸って力を蓄え、後は楽にして、止めるようにしています。会で顔を真っ赤にして力むことを戒める教歌もあります。

6.射技射形の円相は無理、無駄がなく、中庸で滞ることがないものです。弓の力は自分の力に相当する力の半分程度を使い、会のイメージを抱きつつ、弓を構え、崩さず打ち起し、反り橋の如く左右均等に引き分けます。これが比人双のかたちであり、両腕、両肩と胸筋の5箇所で引き納めた後、円の中心に楔を打ち込んで、4箇所同時の離れとなるのも円相の働きです。

 一寸話が大きくなりましたが、全ては中央でバランスを考えるのが基本です。


1-2 我は大日如来なりと思うべし

 古書に曰く「目中(めあて)に用いる日月身と云う心は、我は大日如来と思うべし」これを「大日の曲尺」と云う。

 めあてに用いるとは正しく的中するためにという意味であり、そのためには自分は大日如来であると思いなさいと書いてあります。大日如来は天地の中央にありて、何も恐れるものもなく堂々と涼やかにおわすものです。

 我も弓のうらはずと本はずの中央にありて、陰陽の中央にある大日如来にあれば、何の恐れるものも無く如何なる儀式でも貴人の前にても、恐れる事なかれと云わんがためである。

 どんな熟練の達人でも、恐れる気持ち(萎縮、臆する、入れ込み)があるときは、とかく仕損じるものであるので、心をゆるりと筋骨も伸びやかに、悠然と行うのがよい。

 この「大日の曲尺」は、大試合のここ一本というとき、上がらないためのおまじないとしても大いに効き目があると思います。緊張のあまり足がガタガタするとき、弓構えにおいて小さな声で「我は大日如来なり」と口の中で呟き、自分に云い聞かせます。そうすれば気は丹田に沈み、悠然とした気持ちになれるはずです。


1-3 自分の力に合った弓を使うこと

 弓道の修行において、自分の力に見合った強さの弓を使うことが極めて大切なことであり、竹林流の奥義書の冒頭の序文の後に、弓をこれから修行する人のためにやさしい激励の云葉があります。

 「3体、父母より譲り受けたるもの、剛なりといえども我が力にあらず、弱なりといえども我が恥にあらず。」

 注釈にいわく、3体というのは骨、肉、皮のことであり、骨格、筋肉、体の外形を云いいます。強い骨格の人でも、これは親からの遺伝によって自然に骨太く生まれ育ったもので、自分のせいではない、また逆に骨細く、力弱い人も自分のせいではないので少しも恥じる必要はありません。

 ただ力の強い弱いを気にしないで、懸命に練習し、勉強すれば、水が岩石を平らに削るように、鉄が鋼を削るように、剛は剛、弱は弱とそれぞれの骨力に応じたように調和して稽古しなさい。

 先生の云うことを信じて、「力の強きを妬まず、力弱きを謗らず正直を神として、法度に任せて(弓道の決まり、おきて、仕組み理論を良く勉強し、練習する)心底に治するものには、印可を相伝すべし」とあります。

 これは、弓道では使う筋肉が一般の筋肉と異なるので、入門したての初心者では、力がなく苦労しますが、一生懸命に練習しますと、しだいに力がついてきますので、慌てないで力に見合った強さの弓で練習しなさいと云うことを優しく伝えたものです。また、無理に体に合わない強い弓を使いますと、正しい基本が出来なくなり、正直な(正しく真っ直ぐな)技術が習得できないので、行ってはならないと戒めたものであります。

 丁度良い強さの弓と云うのは、同じ強さの弓を2本重ねて素引き(肩を入れる)ができるときの、1本の弓の強さが基準であると言われています。


1-4 弓身意の三位一体について

 弓力と身体と気持ち(精神)の三つが調和しないと、正しい行射ができないと古書にかかれています。

 自分の力に合った弓力の弓を使用しないと、三病(早気、持たれ、緩み)などの悪い癖を付け、上達どころか全くダメになってしまうおそれがあります。

 また弓を引くに十分の体力があっても、その考え方が射法の基本(曲尺)を理解しないで、安易に、当て弓、ロボット弓など、独善的に行っていると、正しい射法が身に付かず、ダメになってしまいます。

 さらに、修行に真摯で真面目であっても、正しくない弓(出木の弓、上下のなりの悪い、癖の悪い弓)を使用していると、正しい結果(的中、鋭さ、安定性などの貫中久)が得られません。

 従って、しかるべき先生についてしっかりと修学し射法の基本を正しく理解して、自分に合った性質の良い弓をえらび、骨法に従ってよく調和させて行うのが、肝心です。


1-5 弓弦矢の調和について

 前回の話の続きに、弓・弦・矢のバランスがあります。強い弓にには太い弦が丁度良く、重い矢がつりあうこと。弱い弓には細い弦が合い、軽い矢が釣り合うという、当然のことです。これは道具の相応の釣り合いであり、よく心得る必要があります。

 強い弓に細い弦は、切れやすいばかりでなく安定性が悪い、反対に弱い弓に太い弦は弦音が悪いばかりでなく矢飛びまで鈍くなります。

 強い弓に軽い矢はホップしやすく、弱い弓に重い矢は沈んで届きません。

 これらは全て、ちょうど良い相応と云うものがあります。


1-6 コツと骨法とウエイトリフテイング

 「コツを掴めば、コツを覚えれば、楽にできる」という云い回しは弓道用語からきたのではないでしょうか。コツを掴むとはやり方の要領を掴むことですが、日置流や竹林流の骨法から来た云葉のように思います。道場にかかっている吉見順正(紀州竹林派)の射法訓の冒頭に、「射法は弓を射ずして骨を射ること最も肝要なり。」と云っています。

 これは私の私的な解釈では「弓をひくときは、力で弓を引くのではなく、骨にはめて引くことが最も大事です。」となります。

 松戸では、強い弓を引いているのはいずれも50台のおじさんばかりです。若い人はもっと力があり、おじさんよりは楽に引けるはずですが、なかなかそうはいきません。経験の浅い若い人が、強い弓を引こうとするとき、数回程度は引けるでしょうが、コントロールができませんし、基本ができなくなり結局ダメになってしまいます。

 これは骨にはめて引く(関節にはめて引く)要領が判らないためです。そうすれば、それほど力をつかわずに、要所要所だけを抑えることで楽に引くことができるのです。

 話は変わりますが、ウエイトリフテイングを見ると骨法との類似性を感じます。力の方向は全く違いますが、中途半端な位置では苦しく、関節がきちっとはまる位置まで持ってこないと耐えられません。またそのためには引き上げる途中の道筋を如何にうまく持っていくかが勝負でしょう。

 これは弓の骨法と同じです。昔の達人の云い伝えを、今は本多流や日置流などのインターネットで見られるようになっていますが、達人は会から離れの骨法を先に覚えさせ、次に正しい弦道を確認し、引き分け、大三、打ち起こし、弓構えに戻して、腕の張り方、筋の使い方を教えています。このような意味から、弓構えや大三の位置における円相の構えが大事に成ります。これは、正しい答えを先に求めておいて、逆に戻ってくるやり方であり、じつに合理的です。この感覚さえ掴めば、コツを掴むことができるような気がしませんか。


1-7 五行陰陽道について

 射法訓の最後に「金体白色西半月の位なり」と云う難解な云葉があります。この意味は長い間判りませんでしたが、古書に五輪砕き(くだき)として、五行陰陽道のことが書かれていましたので、よくは判りませんながら、我流の解釈をしてみましょう。

 五行陰陽道は、宇宙、自然界、人間まで森羅万象の成り立ちと輪廻を、天地の二極と五元素に分解して、説明するものであり、これに射法を当てはめて説明しています。陰陽道では天地、日月、父母を弓の本末、押手勝手の剛弱に喩え、釣合が重要であることを教えており、精神は大日如来のように、ゆったりと円やかに自信に満ちた射を目指すもの。五行道は全てのものを、天道の五惑星(土星、水星、木星、火星、金星)、物質の五元素(土、水、木、火、金)、方位(中、北、東、南、西)、五原色(黄、黒、青、赤、白)、五形(四角、円、球、三角、半月)に分解して考えています。

 この他に、五体、五胴、五重十文字、五つ手の内、五つ掛けなど五にこだわった云葉が多数あります。弓道八節に相当するものとして射法五身(味)があり、これを五輪砕きに当てはめて説明しています。すなわち、1)目当て:足踏み胴造り弓構え、2)引き取り:打起し、引分け、3)会、4)離れ、5)見込み(残身)について五行に当てはめて説明しています。これとは別に、弓道の修行の5段階についても五輪砕きに当てはめていますが、これについては別途述べます。

1)目当ては「土体黄色中四角」であり、大地に根を張り、重心を中央に置き胴造りは歪みがないように四角くするのが射の基本です。

2)引き取りは「水体黒色北円形」であり、その心は水が流れて隅々まで行き渡るように弓の中に円やかに納めます。

3)会は「木体青色東団形」であり、木々が青々と茂って勢い盛んで、一杯に膨らんだようすを云います。

4)離れは「火体赤色南三角」であり、鉄石相克して火のいずること急なり。勢いのある離れです。

5)残心は「金体白色西半月」であり、黄昏に白く輝く明星、西に半月を見るように悠然とした様であるといいます。

 しかし、やはり何のことだかさっぱり判りません。


1-8 夢中と覚醒と無念夢想

 心技体については弓道教本1巻の序論や4巻(村上先生)に書かれています。私も凡人ながら弓の楽しみとしての気持ちについてまねごとを書いてみたいと思います。

 弓を単純に当てっこだと思った場合でも、夢中にならないと上達しませんし、面白くなりません。ロボットのようにやっていたのでは面白くありません。先ず夢中になることが第1条件です。次に夢中になりますと、知らないうちに突然当たるようになりますが、中りが付くと自分がどうなっているのか、判らなくなり、癖がつきます。早気にもなり、引き方、離れなどが判らなくなります。こんな時は自分を後ろから他人の目で見るような覚めた気持ちが必要になります。夢中になっていたのでは五重十文字がどうのとか、五部の詰めがどうのとか判りません。これが第2です。

 しかし覚めた目ではもう一つ乗ってくる所が足りません、中りがまた逃げていってしまいます。弓の醍醐味は引き分けから会に至り、離れの瞬間までじりじりと詰め合いをして、如何にスパッと切れ味鋭く出せるかにあると思います。覚めた目で、ああしよう、こうしようと考えている間は達成できないのです。

 ここで大日如来様の心境のように無念無想に入れるようになれば、あるいは松林を吹き抜ける風のようにさわやかな気持ちになれれば、欲張ることなく自然な動作ができて、練達の域に近づけるのかも知れません。これが第3段階です。

  試合などで頭が真っ白になって考えられないときに、「夢中でやる中に、少しだけ覚めた気持ちで、悠然とできるか」、こんな風になりたいなあと思います。

 云いたいことは、情熱を持って夢中になってやることと、覚めた目でいろいろ確認しながらやることと、全てを超越して悠然と行うこと、これらの3要素をあわせて行うことが、弓道の修行のポイントであると思います。

 情熱と知性と悟りとも云えますが、これには段階と成長があるので、一足飛びに知性でコントロールしようとしてもできないし、いきなり悟ろうとしても役に立ちません。

 覚めた目でチェックをする時、射技の注意点を全て網羅しようとすれば、おそらく100カ条にもおよび、とても引き分けの途中でチェックできるものでは在りません。すなわち大部分のチェック項目は情熱的な練習によって自然に行われており、わずかな数点に絞って基本的な事項をチェックするのでなければ、できません。

 私が日頃チェックしているのは、大三での両肩、会では肩甲骨の合わせ、重心の動き、妻手のはじきなどです。そして、これらが、意識せずともできるようになれれば、無念無想となるのですがなかなか・・・と云うわけですね。


1-9 弓道の幻影

 弓道の達成と云うのは、道路の逃げ水のように追いかけても追いかけても追いつかないように思える、あるいは二十日ネズミの回転車のようにいつまでたっても進歩せず、くるくると堂堂巡りしているようにも思えます。

 バベルの螺旋の塔であれば、同じように見えることもステップアップできていることになりますが、このためには自分を客観的に覚めた目で鏡を見るようにしなければなりません。考えをきちっと持たないと、楽な方に流され、癖の泥沼に溺れて、のめり込んでしまいそうです。

 三病(早気、持たれ、緩み)、五緩(五部の緩み)、六凶の離れは手遅れにならぬうちに矯正しないと大変です。


1-10 射法訓に前文がありました

 弓道リンク「弓道の誘い」、「日本弓道の精神」と言うところに、奈良県の松岡先生が弓道教本の「射法訓」には前文があり、前文を含む全文を載せ、竹林流の吉見先生の略歴とともに、射法訓の真髄を解説しています。

 この射法訓の前文は、弓道の修練の簡単そうで奥深く、捉えにくい、三位一体にして無心無限の心を、こめて本文につなげています。

 文章は一見難解に思えるが、読み返してみると、極めて判り易くかかれており、この射法訓だけで教本の全体を凝縮しているように思います。

【吉見順正 「射法訓」の全文を引用】

 抑々(そもそも)、弓道の修練は、動揺(どうよう)常なき心身(しんしん)を以て、押し引き自在の活力を有する弓箭(きゅうせん)を使用し、 静止不動の的を射貫く(いつらぬく)にあり。

 その行事(ぎょうじ)たるや、外頗る(すこぶる)簡易なるが如きも、 其の包蔵(ほうぞう)するところ、心行相(しんぎょうそう)の三界(さんがい)に亘り(わたり)、 相関連(あいかんれん)して機微の間(きびのかん)に、 千種(せんしゅ)万態(ばんたい)の変化(へんげ)を生じ、 容易に正鵠(せいこく)を補足(ほそく)するを得ず。

 朝(あした)に獲て(えて)夕べ(ゆうべ)に失い、 之を的に求むれば、的は不動にして不惑(ふわく)、 之を弓箭(きゅうせん)に求むれば、弓箭は無心にして無邪なり。

 唯々(ただただ)之を己に省み(かえりみ)、心を正し身を正しゅうして一念生気を養い、 正技を練り、至誠を竭(つく)して、修行に励むの一途(いちづ)あるのみ。

 正技とは、弓を射ずして、骨を射ること最も肝要なり。 心を総体の中央に置き、而して弓手三分の二弦を推し、妻手三分に一弓を引き、而して心を納む是れ和合なり。然る後、胸の中筋に従い、宜しく左右に分かるる如くこれを離つべし。

 書に曰く、鉄石(てっせき)相剋して(あいこくして)火の出ずる事急なり、即ち、金体白色、西半月の位なり。

【異説:射法訓口語訳】

 奈良県の松岡先生のホームページ「日本弓道の精神」の中で教えてくれた「射法訓のまえがき」は、本文に負けないくらい面白いと思います。 例によって、へんちくりん流、いや我流の口語訳を致しましょう。

 そもそも、弓道の修練と言うものは、一寸したことですぐに動揺し安定しない心と身体によって、押すも引くも行う人のとおり自在であり、固有の反発力を持つ弓矢を使用して、静止して動かない的をいかにして中て、貫通させるかにあるといえる。

 その行いは一見すこぶる簡単そうにみえるが、その中に含まれる所には極めて奥深いものがある。

 心技体の三つの要素において、それぞれのベクトルの微妙な変化が、お互いに関連しあって、一千種類にも一万とおりにも変化を生じて極めて複雑であり、なかなか正確に的の中心を掴み、会得することはできないものである。

 ある朝にこれを把握できたとしても、その日の夕方にはもう判らなくなってしまうようだ。

 これを的のせいにしようとしても、的は不動であり、迷いもない。

 また、これを弓矢(道具)のせいにしようとしても、弓矢は無心であり、欲もごまかしもない。

 修練と言うものは、ただ自分の心技体について省みることであり、心を正しくして、気を正しく念じ、正技(正しい射法)を訓練し、至誠をつくして、ひたすら修行に励むことだけしかない。

 正技(正しい射法)と言うのは、弓に打ち勝って引くぞと言うことではなく、骨法にしたがって体の関節にうまくはめこむ要領で、射ることが最も肝心である。

 先ず気持ちを総体の中央、すなわち丹田に置いて十文字の姿勢を正しくすること。

 大三では弓手は3分の2の力のつもりで弦が引かれるのを感じながら押す、 妻手は3分の1の力のつもりで弓の反発力を感じながら引くこと。

 押手は大目のつもりで勝手は3分の1のつもりであるが、押手は押手に勝手は勝手にそれぞれ別々の力にかたよるのではなく、力の弱い左手を大目にして、押手主導でおこなってこそ均等になるよと言うためです。

 そうして、心を丹田に納めて、左右均等に引き分けたかたちが、左右の釣り合い、父母の釣り合いであり、合い和すること、すなわち和合である。

 その後、胸の中筋の十文字を中心にして、丁度左右均等に分離するように、離れを出すようにしなさい。

 昔の奥義書に、「鉄の楔を大石に打ち込んだ時、パチンと火花が飛んで一瞬に割れるように離れるのが良い」とある。

 この離れのあとの残身のたそがれた形が、五行道(五輪)の最後の未来身であり、黄昏に白く輝く金星であり、西に半月を見るような気持ちである。

 相当に独断と偏見に満ち溢れた、へん竹林流の解説です。これはたぶんに冗談交じりですので、信用しないで下さい。


1-11 礼記射義・射法訓

 弓道教本の原点として、礼記射義があげられています。しかし、礼記は中国の春秋時代、孔子のころの書物のはずです。従ってここで云う射は中国の古代の弓道であり、日本の十文字の弓道ではなく、半身で構え、蒙古弓のように親指で抜く射法の弓と思われます。 このように射法が異なっても、その精神は現代弓道にそのまま当てはめて、通用することに驚きがあります。

 射は立ち居振舞いの全てが礼にはじまり、礼に終わると言うことが、全くこのまま当てはまっています。

 中国では座る習慣がないので、日本の弓道の立ち居振舞いとは全く異なるものですが、それなりに同じ精神であったと考えられます。

 この点では実際の射法の違いを超えて、その修行のスタンスの共通性を教科書として採用した先達の懐の大きさに関心します。

 ところで、弓道教本には弓道の持つ精神性と射術の2面について、礼記射義はもっぱら礼および、精神的な指導を述べ、射法訓は射術面の指導を述べたものと解説されていますが、私は殆ど同じ考えに立っているように思われます。

 礼記射義では、先ずは体を直くして後弓をとることが大切であり、詳細には記さないものの規矩に従って正しく行うことが大切であり、そうすれば必ず的中する、的中が無い時は己が間違っており、これを己に求めるのみとしています。

 射法訓にも、先日紹介したようにその前文では修行の心得として、弓の心を正しく理解して、そのチェックを己に求めることが書かれており、礼記射義と同じことをのべています。

 従ってこれらは弓道の2つの要素を別々に教えているのではなく、ともに精神性と射法の両方を併せ持っていると解釈できます。


1-12 「即ち、金体白色---」の即ち

 射法訓の最後の「即ち、金体白色---」の即ちとは何かを議論しているのをHPで見ました。

 即ちとは、一般に「言い換えれば」とか同じ意味を示す言葉として使われていますが、そのような意味から解釈すると、無理な解釈となり、文体がおかしくなります。「鉄石相克して火のいずること急なり」と「金体白色---」が同じ意味を持つとの解釈はおかしいと思います。

「鉄石---」は鋭い離れのことであり、「金体---」は明らかに残身のことであり、因果、あるいは経過を示していますが、同一を意味しているものではないと思います。

 ここでいう「即ち」の言葉の意味は、「すぐに、たちまち、即に、即座に、即刻、したがって、そうすれば」ではないでしょうか。このような意味を当てはめてみると、素直に理解できるような気がします。

したがって、会が充実して一杯になったとき、鉄を石にぶつけるように火花が散ってパンと割れて離れが出れば、たちまちその残身の形は弓手は半月に黄昏て、爽やかな余韻を残す達人の域であると言うように解釈できます。


1-13 位なりの位とは

 射法訓の「金体白色西半月の位なり」の位とは何かを考えてみました。

 この他に伝書には「莚布絹綾錦の五つ」、「五輪砕きの五位」、「十二字五位」など五つの位に拘った言葉が有り、位とは「段階、品格、練達度」を示す言葉であることは間違いないと思われるが、一寸意味が通じにくい点もあります。

 「莚」は織物の基本であり、縦縄に横縄を織り込みますが、凸凹が大きく荒いものであり、初心者の段階を云います。布になるときちっと織り込まれ、着物にもできるようになりますが、ザラットしたもので中級程度でしょう。そして絹の段階、綾の段階、さらに錦の段階になると、きめ細やかで、上質で、至極の織物であり、射では錬士、教士、範士のように練達の段階を示し、上記のように弓道修練の5段階の位をさすものと解釈できます。

 ただし「絹綾錦の三位」ともあるので、ランクの低い莚、布は位とは云わないのかもしれません。

 五輪砕きについては、上述のように修行の練達度の五段階を意味する場合と、天の巻の「五行陰陽道」に書いたように、一つの行射の中での五段階を五身(弓道八節に相当)に当てはめて説明する場合の2種類の意味があります。

 この五身の第一は「土体黄色中四角」の位であり、「目中て」と呼ばれ弓道八節の「足踏み、弓構え、胴造り」のことを言います。この段階は「大地を踏みしめて、体の中央に心をおき、真四角にゆがみのないように」と言う解説があり、射技の基礎を意味しますが、決して初心者という意味にはならないはずです。そして、その第五が「金体白色西半月」であり、「見込み=残身」を説明するとともに、射品射格が練達の域を示す言葉として解説されています。

 しかし、「西半月--」が最高位の練達度であるとすると、練達の士が足踏み、弓構え、道造りをするときは、何の位ですかとなり、矛盾となります。

 十二字五位とは「父母、君臣、師弟、鉄石、晴嵐老木」の十二文字で、5段階を云います。第一は「父母等しければ、子の成人急なり」であり、「父母は左右、子は矢なり」と補足説明があります。また弓道教歌に「剛は父、繋(かけ)は母なり、矢は子なり、片思いして矢は育つまじ」とあり、左右均等に引き分けないと矢が真っ直ぐに飛ばないよと、艶めかしい言葉で教えています。

 第二では「君臣直なれば、国ゆたかなり」であり、「君臣は父母と同じ、国はまた子なり」と同じ意味であることを補足説明しています。これは安土桃山時代の教歌ですから、「良い君主に良い家臣が信頼して力を合わせれば、国は栄えるように、強い押手にふさわしい馬手が釣り合えば、良い射が生まれる」と私流に解釈します。

 第三の「師弟相生ずれば、諸学長高し」とは、「師は弓なり弟は身なり、弓を師と言う意なり」とあり、「先生の教えをよく理解し、弓の性質あるいは射技の本質をよく勉強すれば、修学が進んだ段階になる」と解釈できます。

 第四の「鉄石相克して、火出こと急なり」は、射法訓でお馴染みの句です。「射形の強みにかけて云えり」と補足しています。

 そして第五の「晴嵐老木、紅葉散り満ちて冷し」は、「紅葉重ねという儀なり」とあります。これについては「朝嵐、晴嵐の嵐とは」に書きましたが、「紅葉重ね」と言うのは日置流のように「押手手の内」のことではなく、達人のみが修行を積み重ねて最終的に達成しうる段階のことです。「夏には青々と茂っていた楓の老木が、涼しげに吹き抜ける一筋の秋風に、紅葉がさっと散るとき梢は全く揺るがず、りんとしている」と私は解釈しています。

 この第五の段階は究極の達人の段階であることは間違いありませんが、その前段は何れも低い段階を云うものはなく、射の有るべき規矩を示しています。

 以上のことから、「位」と言うのは、現代で言う段階、クラスではなく、練達の域、あるいは免許を与える段階、高い到達レベルのことではないかと思われます。


1-14 続・位なりの位とは

 本書の最後に「八字五位」というのがありましたので、続編とします。

 竹林流の「四巻の書」は名前のとおり、「初勘(しょかん)の巻、歌智射(かちしゃ)の巻、中央の巻、父母の巻」の四巻構成であり、昔は道統(流派の宗家)が修行の段階ごとに免許を与えていたものですが、その上に後継者となるべき者のみに与えられる秘伝の第五巻「潅頂(かんちょう)の巻」があり、この五巻を合わせて五巻の書あるいは本書(ほんじょ)と呼んでいます。

 この本書の最後に、「受 智 修学 自師 賢覚」の八文字を八字五位と言い、「五位とは修学の位を云い、初学より至極にいたるまでの位、芸の次第を言うなり、八字の心にて知るべし」とあります。さらに「註に曰く、受(うく)は師より教えを受けること。智は己の智をもって考え、師にその善悪を質問すること。修学は実地に稽古すること。次に自師におよんでは自ら発明して機軸を出し、賢覚と悟りに入ることなり。」とあります。

 そしてこの五段階は五巻の書の各段階の免許を言うのだと想像でき、この賢覚の段階まで極めたものは免許皆伝の継承者であるので、自ら発明、新機軸を出すことが許され、全てを委任すると云う意味のことが書いてあります。

 こんな凄いものを写して紹介するのは、あまりにも僭越であり無謀ですが、この「本書」という秘伝中の秘伝を現代でも読めるようにまとめて紹介された先達は、多分本多流の祖である本多利実先生ではなかろうかということが本多流のHPなどから想像されます。

 本多先生は旧来の弓術の秘密主義を排して、竹林流の秘伝書のみではなく、多くの流派の考えを統一して、弓道の近代化を指導された偉人です。


1-15 円相の構えは幼子を抱くように

 取り掛け、弓構え、打ち起こし、大三に至る円相の構えは、「かわいい幼子を優しく抱くように」というイメージがいいと思います。幼い子を抱く時の手つきは、両手の手の平から下腕、上腕までが幼子の体に沿って滑らかに丸く抱えます。また両腕は父母の思いやりと和合であり、子である矢を優しく抱くことによって、素直に育つものであるともいえます。

 伝書では大切な預かりものを、抱えるように大切に扱い、返すべき時には躊躇なく速やかに返すように喩えています。同じような表現として、「重いものを抱えるように」とか、「大木を抱くように」と言われていますが、私はこの「幼子を抱くように」のほうがしっくりとします。

 円相の構えと言っても、どの程度円いのか、肘を張るのか、丁度良い形と言うのが判りにくいものです。しかし子育ての経験のあるものならば、幼い子を抱く時の大切に抱えた感じはおのずから判るものです。

 この方法であれば、手首に力が入ってしがんだり、手繰ったり、捻り過ぎることなく、肘も突っ張りすぎたり、垂れたり、平付けでもなく、両肩に力みなく、しかし、決して取り落とすことなく自然な形が判るはずです。

 これは会における妻手の肘の形も同じであり、「抱え惜しむ気持ちあるべし」とも言います。


1-16 胴造りの大日の曲尺は座禅の心

 弓道四方山話で胴造りと言えば、口癖のように「大日の曲尺」ですが、これは座禅の形であることは言うまでも無いことです。取り掛け、弓構えの時の澄ましは座禅の心です。

 肩の力を抜き背筋を伸ばして気を丹田に静め、眼は半眼にして自分を後から眺めるように悠然と構えるような気持ちです。

 また、この胴造りの形は「袴腰の曲尺」とも云い、袴の腰板がピタッと腰にあたるイメージです。これは背中を丸めた俯き加減ではいけません。また棒立ちでふらふらしているのもいけません。後に反り返って引くのも、逆に前に伏せて引くのもいけません。

 このとき、「袴腰の曲尺」は体の背面のことで、体の前では腹と胸を弓の中に割り込んでゆく感じが必要です。弓に体を割り込ませるのは、「引き分けの体重移動」として以前に書きました。

 大三では体の重心を足の裏の中心のやや後めに置き、引き分けではこの袴の腰板に中るのを意識しつつ、体重を僅かに前に送って体を弓の中に割り込ませるようにする。このとき、胸で割り込むのではなく丹田で割り込むように、むしろ臍と胸の間の距離を伸ばすようにすると、体重は土踏まずからやや前にかかりますが、この段階ではまだ前に行き過ぎないように注意します。

 そして離れの瞬間に、丹田と胸をぽんと軽く前に体重移動(つま先体重)させるように離します。こうすると胸弦を割って開く離れのイメージが出来ます。

 このような胴作りであれば、離れでのけぞったり、腕が前に離れる緩み離れは出ることなく、ただ伸びて緩まざる、穏やかな離れが出せると思います。


1-17 弓道の修行と彫刻の類似性

 弓道の修行は粘土の彫像つくりに似ていると思います。

 粘土で彫像を作る時(やったことはありませんが)、最初は柔らかくて、ぐにゃぐにゃしていてすぐに変形してしまうのに、次第に硬くなってきます。そうすると今度は逆に形を直そうとしても思うようにならなくなってしまいます。最初の段階できちんとした土台つくり、背骨や骨格つくりが肝心です。

 弓道も最初の段階では、肩が上ったり、体が捻れて前後したりして射形が思うように決らないものです。弓道の土台は3重十文字であり、縦横十文字の規矩が基本の骨格ですので、ともかく体を真っ直ぐにすることが最初の条件と言えます。

 古書の五行陰陽道の5輪砕きでは、この段階は「土体黄色中四角」と言われ、土台は四角くがっしりと造り、前後左右に偏らず総体の中央で、体を直くするものであす。

 しかし、時間が経ってくるとだんだん固まってきます。これが第2の段階です。

 粘土細工でも、正しい土台、すなわち「外体なおく」ができないまま固まると、この彫像は仕上げるのが困難になってきます。曲がった体型は、柔らかいうちなら、一寸矯正すれば直りますが、固まってしまったものに、無理に力を入れて矯正しようとすると、ひび割れてひどい場合には壊れてしまいます。

 土台ができて少し固まってきたら、また粘土の肉、皮をつけます。これは少し多めにして十分に行き渡らせ、付けすぎたら削って修正することができます。骨皮筋衛門のじいさんや梅干婆さんの彫像ではおぞましいので、ここはやはりロダンの彫像のように豊満な肉体美でなくては面白くないでしょう。

 この段階は「水体黒色北円形」と言い、その心は、水が隅々まで染み込んで行く様子であり、更には「木体青色東団形」であり、木々が真っ青に生い茂り一杯に膨らんだ様子です。

 つぎに、第三の段階となると射形はもはや固まってきて、あたりも安定するようになってきます。そうなると、もう手荒な矯正はできないので、その欠点をじっくりと観察してサンドペーパーで仕上げるように微調整とすべき段階となります。

 自分のように古株になると、もうすっかり硬くなってしまい、どこか歪んでこり固まってしまったものが癖と呼ばれます。がちがちに固まった癖は容易には直りません。

 しかし、癖も悪性の癌でなければ、あせらず根気良く仕上げてゆくことで、良性の個性としてに改良することはできるでしょう。

 不幸にして、土台が歪んだまま、固まってしまった場合、射形をこねくり回して正しい射に戻すには非常に苦しくて、苦難の道にさまようことになります。

 だから、初心者の方はこのように遠回りをしないで、真っ直ぐに正しい形を身に付け固めてゆくことが肝心であり、それには正しい理解が大切であると思います。

 ここでいう、「骨、肉、皮」は3体と呼ばれ、骨法を形付けるものです。強き骨に、強き肉、強き皮の組み合わせの射となるように努力することが肝心と思います。あせらずじっくりと鍛錬することが、肝心であると思います。

 ようするに、初心者の内は体が柔らかいけれど、次第に硬くなってくるので、個人差はあるが、初期の段階(1、2年の間)に弓道の基本を確実に身に付けることが大切であると思います。そのためには弓道教本などをしっかり読んで、射法の理屈を理解して、修行するのが望ましいです。

 そして、力で弓を引くのではなく、筋骨に当てはめて引く要領を掴む(コツを掴む)ことが、肝心です。


1-18 ねんねん小坊主とは

 1-15に「円相の構えは幼子を抱くように」ということを書きましたが、その続きに「ねんねん小坊主、ねんねこぼうし」の言い伝えがあります。

 会の抱えは円相の構えであり、可愛いい幼子を抱くように、大切に抱えなければいけない。強く抱えすぎると、幼子は起きて泣いてしまうし、弱すぎると落としてしまう恐れがあるので、程よい加減に抱くのが良い。

 会において矢束も定まり、十文字整い、狙いが付いてくると、詰め合い伸び合いが不十分でも、「よし放せ」と当て気がでて、動揺し、乱れてしまうことがあります。

 まさに「弓道は動揺つねなき心身でもって行なうわざ」であるので、ここですぐに泣いてぐずる子を「ねんねん小坊主」とあやしつけるように、自分の心を納めて穏やかな離れの味をいうものです。 自分もこのような心境になりたいと思いますが、なかなかです。


1-19 射という字は身を寸とするものなり

 星野勘左衛門による伝書の解説を読んでいたら、「射という字は身を寸法の基準にする意味である」というようなことが書いてありました。

 射法は骨法にしたがって引くべきものであり、骨法はその人ごとの骨格に合わせて十文字の規矩に納めることが基本です。すなわち、自分の骨格を寸法の基準にして、足踏み胴造りをなし、その寸法のままの矢束を用いて、会の釣り合いに至る。これが骨相筋道です。これについては吉見順正の射法訓も同じですが、「射」という字にそんな解釈があるとは知りませんでした。


1-20 弓矢を取ること審固なりの審固とは

 礼記射義に「弓矢を取ること審固なり」という言葉がありますが、なかなか意味深長で難しい言葉です。相変わらず独断専行で我流の解釈をしてみたいと思います。

 「審」という字は、審査、審判、審理、審議などがあり、つまびらかにするとか、詳しく調べるという意味に用いられており、「固」はかためる、確かにするという意味です。すなわち、「審固なり」とは射法のすべてにきっちりと確かめながら行うことと解釈できます。したがって弓道における自分の考え方ができないと、審固にするのは難しいことになります。

 ところが、この礼記という書物は孔子がまとめたものであり、中国射法の話であり、日本の弓道の射法ではないことは明らかです。

 日本の現代弓道は射法を「八節」に分解して教えていますが、江戸時代では離れと残身を合わせて「七道」として教えていました。また、射法を五つ(目付け、引き込み、会、離れ、見込み)に分類して、「五味、五身」とも呼んでいました。

 古代の中国の射法については「射学正宗」という書物があり、中国射法を詳しく解説しています。これによれば、中国の射法は「審法、こう法、均法、軽法、注法」の五つであり、五味とぴたり対応しています。

 すなわち中国射法の五法の最初が「審法を論ず」であり、「審」は「ねらい」と読みます。「矢を放つにはまず意が第一であり、意は心にあって目に発するものである。だから審(ねらい)を第一とする。審は目をもって主となす。だから射んとするならば、まず目をもって審定し、而して後に肩肘の力によって発する。」

 審は単純には「狙い」のことと言えますが、もう少し広い意味では五味で言う「目付け」に相当します。「目付け」では単なる狙いではなく、目当て物(的)に対峙する足踏み、胴造り、弓構えが真っ直ぐに的を向き、矢筋、矢どおりをイメージし、遠近高低を定めることを含めています。

 話は変わりますが、中級あるいはベテランの方でも会において狙いがなかなかつかないのを見かけることがあります。そのことをお話しすると、「引き分けにおいてまず肩、あるいは肘を収めようとするとき、なぜか狙いが外れてしまう」という返事が返ってくることが多いです。このような場合、私はそれ以上云わないことにしています。

 しかし、自分はその考えは本末が逆であると考えています。すなわち矢と狙いはいつでも的芯に向いているようにするべきであり、その前提の上で弓に体をはめ込むとか肘を十分に回すことが必要であると思っています。だから体をはめ込んでから狙いをつけるのではなく、逆であると思います。

 中国射法の「審固」とはまず目で的をしっかりと見据えて、狙いを固め、矢通りを掴むことにあり、而して後に体を使って均等に引き分けることを教えていると考えることができます。すなわち正しい狙い、および目付け(足踏み、胴造り、弓構え)が、まず優先すべき事項であると云いたいのです。


1-21 心の騒静は七情を去って寝々子法師に至れ

 寝々子法師の話は、天の巻1-18に書きましたが、弓道には激情が妨げになることが、中学集という竹林流の伝書にありましたので、現代風に書いてみます。

 心の騒静(そうせい)とは騒ぐと静かなるとの道理であり、何事も静かでないと達成できないものである。弓道において何事もというのは、射形、的中、堂射、射抜き、遠矢(現代では行われないものもある)などであるが、とくに的中は弓の神であり、魂であり、弓の本地(本質)とも云うべきであり、騒がしくては叶わぬものである。身骨気心(心身)ともに静かでない状態では尋常の的中は得られないものである。

 七情は七障とも云い、喜怒憂思悲恐驚のことである。これは喜怒哀楽、恐れ驚き、心に動揺、激情があるなど、心の騒がしきことの原因である。この七情に煩う間は目当ても定まらず(集中できず)、心せく(急ぐ)ものという意味である。

 寝々子法師(ねんねこぼうし)とは弓を心静かに収めることを云うもので、まず心から静まらぬようでは、弓など納まるはずがないという道理である。

 身骨の騒ぎは八方詰め(五部の詰めと三重十文字の重ね)の惣搦(そうがらみ)を肝要にして静かなることを専らにせよという意味である。

 ここで天の巻の冒頭で述べた、「我は大日如来なりと思うべし」を思い出してください。自分が大日如来であれば天地の中央であり、如何なる儀式においても何も恐れるものなく、心をゆるりと筋骨も伸びやかに、心を臍下丹田に収め、七情を離れることができるものです。


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