12-23 弓に関する神話〜竹林流伝書「灌頂の巻」から

2022/10/21 金 18:00
櫻井 孝



その後、帝釈天は仏敵である修羅(阿修羅)との戦いとなり、弓矢を用いて滅ぼし、世は治まりました。このとき烏が戦況を伝えたことから、お先と名付けました。また仏道を日本に伝えたとき(日本を平定した時)烏が先導したことから、烏を日神(陽)の使いとして、弓の上下を烏兎(うと)といい、弓の末本(うらはず、もとはず)と云います。

仏像の梵天・帝釈天は国防大臣であり、四天王や十二神将などの武将と千手観音が弓矢を持って警護するのも納得です。

4.聖徳太子と達磨禅師の伝説
仏道(神道)を先の條におおかた(概略)記すなり。
意趣(いしゅ)は聖徳太子と達磨(禅師)とは本は(もとは)中天竺(なかてんじゅく:インド)の人なるが、漢白と覚賢(かんぱくとかくけん:共に弓の達人)が弓説(ゆみのせつ=弓の逸話)を聞き、さらば(それならば)日本へ禅学(ぜんがく=仏教)を渡すべし。
しからば日本へ生まれ変わり、互いに仏法の総(ふさ=長)とならんと約束し給ひてあるが、なんと間違いたるなり。
尊者(そんじゃ=達磨)は二十年先に大和の国の片岡谷と云う所の貧しき者の子に御生まれになって、聖徳太子を待ち給うあいだ、馬になりて人に使われ給いて(あるが)、聖徳太子御生まれ給ひてより互いに知ることありて、その時の歌にも日本の縁(えん)ともに顕然(けんぜん)たり。こと細かにここに記すに及ばず。
または千編巻(せんべんかん)の弓(書)に内伝これあり、これ灌頂(の巻)なり。日本に千編数珠とて念仏者の用いるものも、弓を真似て念仏の行者仕(つかえ)学びたり、万法(ばんぽう)みな弓より起こるなり。人間万事一心に収まる如く中りにて究(きわ)まるぞ。」

ここからは聖徳太子と達磨が日本に仏教を伝え、弓道を修学する話が続きます。日本、弓道(ゆみのみち)と云う言葉にも注目です。

聖徳太子は日本の偉人の代表であるのに、インド人であったとはいかに、また達磨大師と一緒に日本の地で生まれ変わり、仏教を広めようと約束したとあるとは驚きですね。

これもインターネットで調べると、奈良の王子の片岡山という所に達磨寺という聖徳太子ゆかりのお寺があります。

「厩戸御子(聖徳太子)が片岡山を通りかかった時、飢え死にしそうな異人がいたので、食べ物と衣服を与えて助けたが、後日亡くなったことを知り、悲しみ墓を建てて弔ったとき、前世で仏道の総とならんと約束したことを思い出し、万葉集に歌を詠んだ」とありました。このときに詠んだ歌が、万葉集に残されています。

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