1-27 骨法、あるいは骨相筋道について(其の三)〜自分の体を意のままに操ること〜

2018/02/06 火 19:13
櫻井 孝



※初出時、轄の注釈を車輪の下に差し込んで固定する輪留としていましたが、編集者(峯)の間違いでした。著者の意図通りに修正しました。

7.矢束のこと


縦横十文字を保ち、弦道を通って引き分けるとき、会は矢束によって定まり、すなわち「過ぎたるものも及ばざるものも不可であり、適正なものを真の矢束と云う」。しかし、これは射法の肝心であるとして、昔の弓術書は難しく表現し、口伝にて伝えたため、言葉の解釈が異なっています。

弓道教本では、「引く矢束 引かぬ矢束に ただ矢束 放つ放れに 放さるるかな」とあり、引く矢束は手先の技で放つ、引かぬ矢束は心気充実して満ちて離れるもの、ただ矢束はただ保持しているだけの状態であり、引かぬ矢束を適正と解釈しています。

竹林の伝書には「引く矢束 引かぬ矢束 ただ矢束 三つの矢束を よく口伝せよ」、「矢束は骨相筋道に従い極まるもの也。矢束極まる処骨相筋道に叶ひたる也」とあります。註釈には「引く矢束は五部の詰めに付き短きぞ、引くべき矢束なり。引かぬ矢束は骨相に付き長きぞ、骨筋を外して引き過ぎたる矢束ゆえに、引かぬ矢束なり。ただ矢束は世間のことよ、あるいは我儘なる矢束のことなり」と、とぼけて表現しています。

世間のこととは矢尺を決めるときのように、ただ自分の両肘を水平に伸ばした長さに伸びの分を加えた長さのことで、我儘なる矢束とも云い、次に述べます。

「ただ」という重みのない言葉に惑わされて、「そのまま」という素直な言葉を否定したために解釈が異なりましたが、「適正な矢束」があることは共に同じです。

引き足りない矢束では骨法に嵌らず、引き過ぎた矢束では伸びることができなくなり緩んで骨相筋道に叶わない。適正な矢束まで引き分けた会は、左右が釣り合って伸びがあり、骨相筋道に叶うものです。

8.射は我が身を寸とするもの


「射」と云う字は身に寸と書きます。その心は我が身の骨格寸法を基準とするとき、丁度よい矢束が決まり、自分に合った射形が定まるという意味です。これを我儘なる射とも云いますが、それは決して我儘な(自分勝手な)射ではなく、我が骨格のままの正直な(正しく真っ直ぐな)射です。

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