11-19 弓道の概略史

2015/09/29 火 00:00
櫻井 孝



・源平から鎌倉時代には武士の最高の武器として、弓は日本刀と同様に発達し、竹と木を組み合わせ膠で接着し、漆塗り、籐で巻く技術が発達し、日本弓の原型ができたと考えられます。源為朝は鉄の弓を用いたと云われていますが、心材のヒゴに鋼(筋金)を入れたのかも知れません。平家物語の那須与一が船上の扇の的を射た話は有名です。また鎌倉源氏の小笠原流、武田流は古い武家の射術、装束、しきたりを連綿と現代に伝えています。

2)中世の弓
・室町時代に日置弾正正次(大和)、日置弥左衛門範次(伊賀)と云う伝説上の兄弟が弓術を確立し、弓術書(伝書)を伝えました。日置弾正は近江の豪族吉田重賢に相伝し、日置流(吉田流)と呼ばれました。江戸時代には鉄砲が禁止されたので、武士の修養として弓術が盛んとなり、中でも日置流は出雲、印西、雪荷、道雪、大蔵など十数派があり隆盛を極め、現代に至っています。

・日置弥左衛門から数代を経て、竹林坊如成という天台宗(修験宗)の僧侶が伊賀日置の弓術書を継承して竹林流(日置流竹林派)と呼ばれました。竹林の伝書には吉田流とは別の流れであると記述されていますが、竹林坊の居館は吉田城のすぐ近傍にあり、また吉田家の菩提寺の住職を務めたと云われているので、吉田流本家で修業して極めましたが、射法の考え方の違いなどから袂を別って、別の流派であるとしたのかも知れません。

・竹林坊如成は近江から名古屋に移り、尾張松平家に仕え弓術を教えました。竹林流二代目を継承した石堂竹林貞次も弓の達人であり、尾張徳川家の御弓奉行となり、多数の家臣を育成しました。二代目没後、正統竹林派(石堂家)、尾州竹林派、紀州竹林派に分かれました。紀州竹林派は貞次の弟子が紀州徳川家に伝えたものですが、吉見順正のように紀州から尾張に留学して印可を授かった人物もいました。よって、射法は全く同じですが、京都の三十三間堂の通し矢では、ともに譲らず競い合ったことは有名な故実です。

三十三間堂の通し矢は、多数の藩と流派の名誉を懸けて、一昼夜でお堂の軒下(高さ5.5m)縁側(長さ120m)をかすらずに何本通すかと云う極めて困難で過酷な競い合いでした。推定40キロ以上の弓を用い、長さの短い差し弓、差し矢(遠的矢)が開発されました。記録は浅岡平兵衛(尾州)の51本から、次々と記録が塗り替えられ、射法訓の著者の吉見順正(紀州)が6,343本、星野勘左衛門(尾州)が18時間で10,000本中の8,000本を通し、ついに吉見順正の弟子である和佐大八郎(紀州)が24時間で13,000本中の8,133本を通して、不滅の大記録を打ち立てました。

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