12-21 「礼記射義」の解説

2015/01/05 月 12:57
櫻井 孝



1)射は進退周旋必ず礼に中り
射ることは、まず進退周旋(立居ふるまい:体配)から習熟してかからねばならない、そして射るときに及んでは、その動作は必ず礼にしたがって、射儀を失うことがないようにしなければならない。内面的には志を正しく持ち、心は自然で安らかにし、外面的には体を必ず真っ直ぐに保つことで、心身が自然に豊かになるのである。

2)弓矢を執ること審固なり
矢を発するには、必ず最初に主意(的)を定める必要がある。主意は心にあって眼に発する。このため審(ねらい)を先とするのである。

中国射法「射学正宗」の射学五法(射法八節に相当)の第一は「審法を論ず」であり、日本の古流射法では「目当て」と云い、現代では足踏み・胴造り・弓構えに相当する。審の方法は視力によって詳らかに見定めるものであり、その後に肩臂などの総体の力を用いて矢を発する。審は視力を主とするものであり、最後の注法(見込み:残心)と相照応する。すなわち射の初めから最後まで周到な注意を払って動作することをいう。

志が正しければ、視力の働きで自然に弓矢に連なって、照準を定めることが審らか(つまびらか)である。体が直ければ、臂(ひじ)力の強さが弓矢に及んで、これを持すること堅固となるのである。

精神と体力との両方が全うして弓矢を持することが審固であれば、初めて正鵠(的心)に的中するというものである。正鵠は単に的心だけでなく、射法の真髄とも解釈できる。

3)これもって徳行を観るべし
射は精神、体力の修養を積む理由であるから、その射を見ればその徳行修養の状態が窺われるものである。ゆえに、その射を観ればその人の徳行を知ることができるのである。

4)射は仁の道なり、射は正しきを己に求む
この節は前に述べたように、射はまず内志正しく外体直くなければ、正鵠を得ることができないものであるので、己自身を正直(正しく真っ直ぐ)にしなければならないという外に仕様のないものである。このように己を正直にして、その後に矢を発すべきである。このように行った以上は、発して正鵠に中らない場合でも、全く自分一人の責任であるので、己に勝ったものを怨むなどはすべき理由がない。むしろ振り返って正鵠を得られなかった原因を己自身で反省する以外にないのである。


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