11-17 竹林坊、日置流の故郷探訪

2011/12/08 木 18:50
櫻井 孝



このお寺には竹林坊と関わる情報はもともとありませんでしたが、竹林流の文献では還俗して故郷に帰った竹林坊は石堂寺の住職をしていたとあり、またウィキペディアによれば竹林坊は吉田家の祈願僧であった書かれています。

石堂寺(いしどうじ)をインターネットで調べてみると、この地方には石堂寺というお寺はなく、雪野山から7キロほどにある石塔寺(いしどうじ)の読みが同一であることに思いつきました。

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▲写真4 阿育王山 石塔寺

竹林坊が北村姓から石堂(いしどう)姓に変えたのはここに関連して、漢字を変えて姓を名乗ったのではないかと思い訪ねました。

石塔寺については五木寛之の「百寺巡礼 第四巻」に記述されたお寺であり、聖徳太子が建立しアショーカ王を奉った古く由緒あるお寺です。後に天台宗となり、多数のお坊を配置し栄えていましたが、織田信長の徹底的な焼き討ちにより伽藍も記録文書も全て壊滅しました。

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▲写真5 石段と五輪塔

江戸時代に再建され、現在は美しく静かな境内と巨大な三重の石塔の周りを夥しい数の五輪の塔で埋め尽くされ実に壮観でした。

百寺巡礼の受け売りではありませんが、巨大な石塔にはインド文化、あるいは朝鮮半島の文化の雰囲気が感じられます。この近くには百済寺があり、7世紀に滅亡した百済人が移住してきたのかも知れません。

お寺の関係者にお話を聞きましたが、信長の焼き討ちのため古い記録が残っていないので竹林坊と石塔寺とを関連づけるものはありませんでしたが、境内の巨大な石塔と夥しい数の五輪の塔を眺めるとき、「金体白色西半月」で終わる「五輪砕き」を思い出し、竹林が石堂と名乗ったことに意味があったように思えました。

image[6)三重の石塔と五輪塔.jpg]
▲写真6 三重の石塔と五輪塔

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