11-13 日置流から竹林坊への継承の謎

2009/04/16 木 19:59
櫻井 孝



訂正:
竹林の伝書に日置弾正は1500年代、日置弥左衛門は1400年代の人物とあり、弥左衛門のほうが約100年ほど古いので、兄弟も同一人物もありえません。弥左衛門は安松左近丞吉次、新十郎、弓削甚左衛門繁次などを経て、三島大明神(左右[そう]神社)から弓書を請け出したとあります。
(2025/05/01)

次に、安松左近丞吉次(伊賀)が1418年に日置弥左衛門から唯授一人を得、弓削甚左衛門繁次(近江)は安松吉次から1505年に唯授一人を得たとありますが、この間が八十四年間もあるので不信に思う人があり、「本朝武芸小伝」では二人の間に安松新三郎と弓削甚左衛門正次がいたとしていますが、仔細は不明です。

弓削繁次には相伝すべき者がいないため、弓書を三島大明神に奉納して没し、伊賀日置流の継承は中断しました。

2.竹林坊如成の継承

石堂家譜によれば、竹林坊如成は近江国蒲生郡須恵村(石堂村とも)に住む北村という郷士の末子であり、幼少から比叡山の竹林坊に住んでいました。もともと武家であり山伏であるので射芸を好み達人の域に達しましたが、「たまたま浪人(安松左近なるべし)が来て僧徒を集め教えたら、如成は奥義を窮め印可を得た」とあります。

これは石堂家の記録ですが、安松が竹林に教えたとすると、系譜的にも年代的にも矛盾します。

「尾張国竹林流繁盛記」の中の「竹林流弓術覚書」には、「石堂寺の住職となり弓場を設けて修行し、弓削氏に便りを送り日置流弓術を学び、妙を得た」とあります。

竹林坊は1551年に三島神社の日置流弓書を請出して伊賀日置流を継承しました。弓削は相伝すべきものがいなかったのに、なぜ竹林坊が後年になって請出すことが許されたか疑問です。

これには弓削の相伝から四十六年の差があるので、弓削の晩年には竹林坊がまだ若過ぎたためかも知れません。

その後、竹林坊は尾張清洲城主の松平忠吉候に仕え多数の門弟を育成し、「日置一遍の射」を著し射法を定めたので、日置流竹林派と呼ばれました。

3.竹林坊と日置流の故郷

インターネットで「日置流」、「吉田流・竹林派の故郷 蒲生野」(生弓会・多々良茂氏)を検索すると、日置流(吉田流)の本拠地と竹林坊の故郷が同じであるらしいので、別の視点から述べましょう。

日置弾正政次も日置弥左衛門も伝説上の人物であり、仔細は不明ですが、日置吉田流初代の吉田重賢は南近江の戦国大名六角氏の家臣で、蒲生郡川守城(現竜王町)を本拠地としていました。

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