9-13 弓道の無常
2008/07/29 火 18:13
櫻井 孝
例えば、正射必中を目指して相当に良い感じで行っているのに、明らかに全く駄目な初心者の射に負けてしまうことがしばしばあります。五重十文字の何たるかも判っていないものに対して、「こうすべきですよ」と指導するどころか、全く価値観が示せなくなってしまいます。
若い頃は100発100中の達人でも、年を取ると弱い弓も引けなくなり、的に届かないようになってしまいます。これはもちろん年齢による体力の衰えのせいもありますが、それだけではなく弓道のとらえどころのなさ、無常さにも原因があるのではないかと思います。
矢が前に飛ぶからといって、押手ばかり強くしようと考える時、かえって押手は効かず、逆に押手を止めたまま馬手で離す初心者のほうが真っ直ぐに飛んでいます。射法訓の「弓手三分の二、馬手三分の一」の教えは何なのかという疑問にぶち当たります。
押手を効かそうとすると効かず、左肩を働かせようとして力を入れると効かず、押手で強く離す時、振込みになってこれも効かないのです。強く鋭く握っても、離れの瞬間に握りこんでしまうと返って弓の返りを止めて前矢が出てしまいます。
弓道は天邪鬼(あまのじゃく)であり、一所懸命に努力しているものにはさらに高い宿題を課して、なかなか許してくれません。むしろ、適当にやっていれば、適当に返ってくるのです。
「柱にくくりつけた綱を、強く引けば強く応え、弱く引けば弱く応える」のも同じことです。
物理学には「作用・反作用の法則」というのがあります。すなわち左右に力が働いている時、それが動かなくて静止していれば、釣り合っていることになるのです。従って押手を強くしたいとして一心に押してみても、馬手以上には強くならない。逆にバランスを崩してまで押手を強く動かすのは論外です。
先ほどの柱のように、「押手は強く力を受けても負けないような容量を持たせることが大事であり、積極的に押しかけるものではない」と言うことです。
「如何ほども 剛(つよき)を好め 押す力 引くに心の あると思えよ」という教歌があります。
これは何処までも強い押手を良いと認めながら、それに釣り合う馬手はもっと強いので、引く心に釣り合いの加減があってバランスが取れていなければならないと云っているとも受け取れます。
押手の極意は「嗚呼立ったり(ああたったり)」の手の内です。
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