11-11 竹林坊如成の終焉のなぞ

2006/08/22 火 00:00
櫻井 孝



image[竹林院への礼状]
▲吉見順正外孫から竹林院への礼状

これについては、すでにこの巻の「11-8 吉野山雪中弓道合宿」において、竹林坊の終焉の地が吉野山の金峯山寺の竹林院(修験宗本山)であり、その23代の尊祐院主が竹林坊であるという記事を書きました。ここで、竹林坊が吉野山の竹林院にいたという証明が、皮肉にも紀州竹林流の吉見台右衛門(順正)の外孫である須藤○左衛門が明和七年(1770年)に竹林院を訪れて、流祖如成の遺品、霊弓に接して感激した礼状からでした。

竹林坊が何故家族を捨てて再び出家したのかは不明ですが、自己の確立した弓道には執心したけれども、多くの門弟も育て、尾州家の弓奉行としての家督と弓道の印可を譲った後にはそれ以上の欲はなく、定年を迎えたサラリーマンが田園生活に回帰するように、修験者として再び修行の道に戻ったのではなかろうかと想像できます。

吉野山は和歌山市の東方30キロ程度、紀ノ川の上流が吉野川(奈良県)であり、紀州には近いので紀州竹林には消息が伝わったのではないかと思われます。

竹林坊の宗派については真言宗(密教)であり、不動明王や大日如来の信仰でした。吉野山金峯山寺は「役の行者」が開祖の修験道(山伏)の総本山で、南朝の本拠地がありました。場所は高野山の東隣でありますが、宗派的には天台宗と関連しています。

仏教では本来不殺生であるのに、その師がこの時代に人を殺める武道を極めるのには不釣合いと思われますが、いわゆる巷の仏教ではなく、修験道の山伏であれば武道はふさわしいのかも知れません。大日如来を信仰し、不動明王を唱え、山上ケ岳(奥の院海抜2000m)への奥駆け修行と千日回峰の荒行によって、武道のさらなる奥義を追求したのかも知れません。

近年この地は世界遺産に登録された日本屈指の大自然ですが、私は行ったことはありません。

訂正:
竹林坊の宗派については、近江の育ちで幼少に比叡山に出家したと云う文書、また竹林坊が住職を務めたと考えられる「石塔寺(いしどうじ)」が天台宗であることから、私は「天台宗」と考えました。
しかし、後日吉野山の「金峯山寺竹林院」にて遺跡を見て、院号は「弓照院大日師」であり、「五輪砕き」は高野山の奥の院の墓所にみる夥しい五輪塔の教義から「真言宗」が相応しいと考えが変わりました。

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