11-9 私説・日本弓道の歴史

2006/06/06 火 00:00
櫻井 孝



日本弓道の発達は大きく分けて、次の4段階に分類できると思います。

1. 狩猟の手段として発達
2. 戦争の武器としての発展
3. 武士道における心身の修行として確立
4. 体育、徳育としての発達

1.狩猟の手段としての発達
これは有史以前の生活手段としての道具であり、石器時代には長野県の和田峠で産出される黒曜石の鏃が日本全国で発見されていることから、優れた道具は物々交換の時代でも交換レートの高いものであったと思われる。長弓については南洋の海洋民族に共通しているとの意見もあるが、現代でも簡単には往来できないのに、南洋の古代人がカヌーに乗って弓矢を伝えたとは考え難い。世界の民族に共通する自然発生的なものと考えられる。

2.戦争の武器として
日本のみならず世界中の弓はいずれも戦争の武器として発達したことは自明である。

ここで日本の歴史を大まかに分類すると、全国が分裂して群雄割拠の時代→武力統一による強大な国家の成立→平和国家に慣れて軟弱化するとまた乱世となる。これが、古代、鎌倉時代、安土桃山〜江戸時代、明治維新と4回ほど繰り返えされたものといえる。乱世、およびその統一時期には武器の性能研究が盛んになって発達し、平和の時代には衰退する傾向があったと思われる。

3世紀の魏史倭人伝(三国志の時代)には、日本の弓について「兵は木弓を用い、木弓は上が長く下は短く、竹の矢、鉄製あるいは骨製の鏃を用いる」と記されている。当時はちょうど卑弥呼の率いる邪馬台国(やまとと読める)が日本を統一した時期であり、また日本を東夷と云い、東方の大弓を持つ人と呼んでいたことからも、すでに現代と同じように長弓を用い中央よりも下のほうを握る射法であったことが判る。

その後、奈良、平安時代の大和朝廷は平和の時代であり、文学や詩歌が教養として尊ばれ、武術は野蛮なものとして衰退したと考えられる。この時代の弓術は日本流(やまとりゅう)と呼ばれ、実戦よりも儀礼的なものが主体であったと思われる。

平安末期の源平時代から鎌倉時代にかけては、武家の争い(源平の戦い)などから武術としては最高の発達を遂げた時代であろうと思われる。源の為朝が鉄弓(鉄芯入り)をひいて船を沈没させた伝説、あるいは平家物語で那須与一が波打ち際から船上の扇の的を射抜いた話は有名である。

[7] beginning... [9] >>
comments (0)
-


<< 2-17 続・高さの狙い
8-17 四つの離れ(切、払、別、券)のこと >>
[0] [top]


[Serene Bach 2.24R]