11-8 吉野山で雪中弓道合宿

2004/03/23 火 00:00
櫻井 孝



弓道場は30年ほど前に建設されたもので、あづちは硬くなっていて、少しあれていましたが、竹林に囲まれて、とても落ち着いた環境でした。しかしこの2日間は雪が降り続き、雪の中に埋もれて凍えながらの弓道鍛錬でしたが、お互いに指摘しあって、充実感のある合宿となりました。

この合宿は竹林流の源流を訪ねるのが目的でした。訪問する前の調査では竹林院には大弓法師が居たと言う伝説はあるが、竹林坊は後年名古屋の清洲に移り住んで死去しているので、その僧侶が竹林流の流祖であると言う確証がないとのことでした。

image[竹林坊と霊弓]
▲竹林坊肖像と伝説の霊弓

しかし、宿の長老(90歳で先代の院主)から竹林坊如成(豊臣秀吉の頃の人)が竹林院の第23世院主の尊祐であったという証拠の数々を見せてもらい感動しました。

掛け軸の竹林坊の肖像画は目がぎょろりとしたやかん頭で雪舟の達磨大師のようであり、漫画のような絵でした。重要文化財級の絵であろうと思いました。弓道書としては四分冊の弓道書がありましたが、それは千ヶ条の弓道書(なぜか小笠原流と思われる)であり、四巻の書(一遍の射)はありませんでした。しかし、もっと探せば、竹林流の奥義書(四巻の書・一遍の射)が見つかるかも知れないと思いました。

また、吉見順正(射法訓)の外孫の須藤という人が、明和7年3月に、今回の我々のように竹林院を訪ねて竹林坊の肖像画や剛弓(霊弓)を拝見して感動したお礼の手紙がありました。吉見台右衛門(順正)、和佐大八郎の名前が出ています。これを見て、我々一同は竹林坊が尊祐院主であることを確信できました。

この手紙の文章で、自分を「拙者」ではなく「僕」と現代風に云い、また「弓術」ではなく、「弓道」と記しているのは一寸面白いと思いました。そういえば、吉見順正の「射法訓」の前文は「そもそも弓道の修練は」という書き出しで始まっています。竹林流では当初から「弓道」と言っていました。ともかく、この人は吉見順正の孫であるので、江戸時代中期の古い手紙であります。

竹林坊が引いていたと言われる伝説の剛弓(霊弓)は外竹が少しはがれていましたが、飴色に輝き、400年のつやとこくがでており、弓を手に取ってみて感動しました。弓は幅も厚さも約一寸二分(約36mm)あり、真四角で恐ろしく太いもので、私では指が届かず握れません。よほど手の大きい人でも握れない太さであります。

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