8-15 的付けは明確である

2004/06/15 火 00:00
櫻井 孝



私は的付けというものは「あいまい」ではなく「単純で明快」であると考えています。この論文で「あいまい」といっているのは、「的付けは半月が正しいとする場合にたいしてそれぞれ差がある」ということを書いているようですが、私は「的付けにはもともと個人差があり、半月は平均的、標準的なもの」であると考えていますので、差があって当然といえます。

この論文では、「『的付け』は右目に映った弓の影に対して、左目でみた的の影がどこに位置するかによって照準を定めることであると定義する」と書いています。

もちろんこれは正しいのですが、もともと両目で的に焦点を合わせて見ているので、左目でみた的と右目で見た的はまったく同じことになります。したがって、右目だけで的に焦点を当てて見るとき、弓の陰がどこに位置するかだけを考えれば同じであり、左目を閉じて狙っても同じです。こう考えると現象は単純となります。

中段のところにも「左目は的、右目は弓と別々の物を見ていることになる」と書かれているが、誰もロンドンとパリを一緒に見るような芸当はできません。焦点を合わせているのは常に的であるので、弓を見ることはないはずです。

左目は的に焦点をあてているだけで弓から離れているので、両眼で見たとき右目でみた弓の陰を透かす役目だけです。したがって、的付けが闇夜になって隠れるときも弓が透けて的が見えるのが左目の役目です。

この両目の目線と的と弓の関係を図で説明されているのはまったく正しいのですが、私はこの図に矢が的に向かう線を加えて考えています。簡単にするには上で述べたように、左目は関係しないので、右目の線と矢の線の2本の線が弓を挟んで非常に細長い二等辺三角形となります。

このとき、上から見た頬付け(口割り)の位置から右目の目玉(目頭)までの距離は約3cmくらいとなり、弓の幅とおよそ一致するので、半月となるのです。同様に左目(目じり)と頬付けまでの距離は8cm位と大きいので、左目の目線は弓の左を通り抜けます。それで、左目に映る弓の影は右目に映る弓の影の右側にさらに外れて見えるので、的付けには関係しないのです。

的付けが変化する要因についてこの論文は触れていませんが、むしろこの点を説明するのが肝心であると私は考えます。

1. 物見の浅い人の的付けは闇夜(的が弓に隠れるとき矢が的心に向く)になる。

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